怪獣博士、187の肖像@

※著者、蜂巣氏の補足コメントはグリーンの文字で表記。サイト製作者、須藤のコメントは赤文字で表記。



(蜂巣氏の前書き)

例えば、明らかに同一人物と思われる場合でも、ある誌(紙)には実名で登場し、別のメディアでは仮名または匿名扱いになっていることがある。
その場合でも、引用は掲載誌通り、もしくはそれに近い形で記述した。特に、宮崎勤を知る上で重要な、秋川新聞工場長の
K・M氏、幼なじみのK・A氏の発言は各誌紙が取り上げている。

証言を集めることは面白い。それらのキーワードを集めれば、自分だけしか到達しえないような、宮崎勤の核心を探れるのではないか、という気がするからだ。
しかし、映画『羅生門』原作としても有名な芥川龍之介の『藪の中』を例に引くまでもなく、個々人の発言から宮崎勤なら宮崎勤の実像を把握できるかといえば、それは全くの疑問である。

実際、証言を直線状に辿れば、「印象に残らない嫌われ者で人気者」という矛盾した像が出来上がるのだ。宮崎勤への発言者の距離と見る角度、さらには立場や“質”によって、万華鏡のように像が変わる。

各々がパズルの部品を持ち寄って来ても、それがチグハグで噛み合わないのであれば、平面状に絵をつくるのは不可能だ。それならば、立体的に重ねていったらどうであるか。

一定の範囲の中でデコボコしてきたもののつくる影は、見方によっては人の顔に見える。それは象徴的な宮崎の“仮面”だ。後ろに包んでる得体の知れないものの正体を知る術もないが、仮面もまた真実である。この日常生活が“劇場”であるならば。

宮崎勤は、昭和37年8月21日、東京都西多摩郡五日市町の、かつて機(はた)屋として栄えた宮崎家で生まれた。血液型B型。後に二歳下と六歳違いのふたりの妹ができる。

勤が生まれた当時、家には祖父母と両親、結婚前の三人の叔母が住んでいた。町内には宮崎家と親戚関係にある家が何件かある。

宮崎勤の生まれる五年前、父親は、この地域を流れる多摩川の支流・秋川から名前を取った「秋川新聞」を創刊。この地方紙の発行が家業の中心となっていった。



幼年時代

▲小学校入学時

「秋川新聞・印刷センター」で働くM工場長は語る。


1
「私は勤くんが生まれる以前から、宮崎社長のところで印刷の仕事をしてきました。ですから、勤くんが幼い頃のことは、今でも鮮明に記憶しています。
四歳ぐらいまでは、よく工場へ遊びにやってきたものでした。工場の床に腹ばいになって、ひとり黙々とマルや四角の絵を描いて遊んでいました。

笑ったときの顔は、それはかわいらしい笑顔で、恵比寿(エビス)さまのようななんともいえないやさしい表情の幼な子だったんです。
工場で遊びながらお昼になると、私の弁当を分けて一緒に食べたりしたこともありました」

(秋川新聞工場長、K・M氏。『文春』1989.8.31)


2
「おれが弁当食っていると、中身を覗きこんだりするから、卵かなんか食べさせてやったね。ほんとにかわいい子でしたね。丸顔で。社長も奥さんも、しょっちゅう工場で遊ばせていましたよ。自動車なんかブーッとやってね。

ああ、そうだ。絵をよく描いてたな、腹ばいになって。そうだそうだ、思い出した。だから俺が言ったんだ。印刷所だから、インクがあって、真っ黒になって汚いんだよって。そんなことはかまわないで、腹ばいになって、夢中になってね、絵を描いてた。三歳か四歳の頃かな」

M工場長)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

3
「ただ、勤くんは、未熟児で生まれたんです。その後遺症か、生まれた時から、手の動きにちょっと障害があった。両親は大変気にしてたんですが、でも成長するにつれ、目立たなくなって、いつしか周囲も忘れていたくらいでしたけどね」

(“秋川新聞”工場長・M氏)[『文春』1989.8.31]

綾子ちゃん殺害の動機を、「手の障害を馬鹿にされた」からだと宮崎は言う。この「手の障害」とは、掌を上に向けるとき、完全に水平にはならないというものだ。
4
「彼の手は、両の手のひらを完全に水平に開くことができないんです。あれは、出産のときの酸欠のためになった障害なんです」

(当時の医師)[『女性自身』1989.9.5]

5
「父親のことをパパ、母親のことをちゃーちゃんと呼んでいました。木登りしたり、河原で遊んだり……バクチク遊びなんかもやって、ほんと元気な子でしたよ」

(同)[『女性セブン』1989.9.7]

モノの破壊からカエルやミミズの殺傷まで、バクチク遊びはマイナス生産的な快感の遊戯だ。この頃、既に「2B弾」のような火薬量の多いものは、製造中止となっていたが。

「おふくろは、子供の頃からずっと、勤のことを、“勤ちゃん”と呼んでいた」

(幼なじみ)[『明星』]

7
「いつもお母さんと一緒で、道で出会うと母親の背後に隠れてしまう、そんな子でした」

(近所の主婦)[『文春』1989.8.31]

8
「彼の靴はずっと母親が買いにきました。いつも白色の運動靴で、値段は4千円くらい。大きくなると、靴ぐらい自分で選ぼうとするのに……。こんなに近所にいるのに、彼の姿を見たことは一度もありません」

(近所の靴屋さん)[『明星』]

9
「勤は、お母さんとはよく話をしていましたね。でも、話をしているときに父親が入ってくると、スーッとその場を離れて自分の部屋に行ってしまう。勤も小さいころから、父親とは遊ぶ子じゃなかった」

(取引先の主人)[『女性自身』1989.9.5]

10
「小さい時から頭を刈っているが、何を話しかけても応答しない。時々、小さな声で『ウン』と言うくらいですよ。苦労を知らないボンボンだな、と寛大な目で見ていましたがねぇ。ちょっと気になったのは、平然とした態度が筋金入りだったことだな」

(近所の理髪店主)[サンデー毎日 1989.9.3]

11
「生徒数も少なかったので、覚えていてもいいはずなんですが、よく覚えていないんです」

(私立秋川幼稚園、N園長)[『フラッシュ』]




少年時代

▲小学校卒業時

12
「小学生の頃、皆で遊んでいても、夕方になると、お母さんが必ず迎えにきました」

(同級生E)[『文春』1989.8.31]

13

「親父さんは、運動会の時に『これから勤がとぶ(走る)よ』と言ってカメラを構えていた」

(近所の主婦)[『サンデー毎日』1989.9.3]

14
「外で友達と騒いでいる姿を一度も見たことがありません。子供の頃は、河原で遊んでいるところも見かけましたが、それもうずくまっていることが多かったように思います」

(近所の主婦)[『サンデー毎日』1989.9.3]

15
「子供の頃、よくかき氷を食べにきましたっけ。でも、いつも一人で背を丸めて食べてたねぇ。子供はたいがい何人かでゾロゾロ来て騒ぐのに、あの子だけはね……」

(近くの雑貨店のおばあちゃん)[『サンデー毎日』1989.9.3]

16
「川へ行こうと言うと、勤はいつも海水パンツひとつで駆け出してきた。そして、みんなと一緒に秋川の河原で水のかけっこをしたり、寝ころがって甲羅干しをした。そういう点では、勤は普通の遊び仲間のひとりだった」

(幼なじみ)[『明星』]

17
「小学校の頃から自分の部屋を持ち、専用のテレビを持っていたのは、このあたりでは勤ちゃんだけ。それだけ大事に大事に育てられた子供でした」

(近所の主婦)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

18
「怪獣に詳しくて、それまで黙っていても、怪獣の話になると、とたんに目を輝かせた。どんなに古いテレビのものでも、怪獣の名前だけはスラスラ言えた。それで、みんなから怪獣博士って呼ばれていた」

(幼なじみ)「明星」

筆者の子供時代のあだ名も“怪獣博士”だ。当時、日本全国にどれだけの“怪獣博士”がいただろう。

19
「小学校の頃はウルトラマンに出てくる怪獣の人形や自動車、新幹線の模型を集めるのが趣味だったみたいで、それはもう驚くほど持っていました」

(近所の主婦)[『サンデー毎日』1989.9.3]

20
「一人でテレビを見たり、怪獣の本を読んだりしていた。あんなにおもちゃなどがたくさんあるのに、遊びに来る友達は少なかった」

(小学校時代、宮崎の部屋に偶然入ったことがある同級のOL)[『読売新聞』1989.8.13]

21
「部屋に遊びに行ったら、猟奇的なマンガがたくさんあって、気持ち悪い思いがした」

(近所の遊び仲間)[『サンデー毎日』1989.9.3]

楳図かずお、日野日出志の類の漫画であろう。古賀新一やひばり書房の漫画はあったか?

当時の人気怪奇漫画家、古賀新一氏のマンガを宮崎が所有していたかどうか、蜂巣氏は気になっているようだ。古賀氏の代表作『エコエコアザラク』の中に、アナグラムに関連する回があるそうで、宮崎のアナグラム創作説を裏付ける可能性があるからだろう。

アナグラム説の真偽は不明だが、宮崎の部屋に『エコエコアザラク』があったのは事実である。
参照:
ビデオリストの一部(マンガのタイトル)。


22
「作文の時間にツトム君(宮崎)が書いた“カラーテレビがほしい”という題の作文を授業で使ったことがありました。家庭内のことを子供らしく書いてあった。クラスには必ず2、3人いい文章を書く生徒がいます。ツトム君はその一人でした」

(小学校1年担任、K氏)[『女性自身』1989.9.5]

五日市小学校2年のとき、学級文庫集『ざりがに』に載った宮崎勤の文。
遠足の途中、洞穴に入ったときの様子を書いたもの。

《……くらいなあ。ぽちゃ。うう。ひゃっけえ。こつこつ。あっ、なにかたってるわい。》



水中メガネが割れ、破片が目に刺さって全治一ヶ月の大怪我をした友人は、クラスで唯一人、宮崎から励ましの手紙をもらってうれしかったことをよく覚えている。

23▼「小学校3年のときでした。ボクが入院したとき、宮崎は“頑張れよ”って手紙をくれたんです。“学校が始まるまでに退院できるか”って。やさしいやつだったんだけどなあ……」

(小学校時代の同級生A・B君)[『女性自身』1989.9.5]

24
「僕の知っている彼は、手紙をくれた優しい友人です。幼女殺しの犯人という現在の彼ではない」

(宮崎から励ましの手紙をもらったことのある五日市町の会社員)[『週刊朝日』1989.8.25]

凶悪犯が逮捕された後としては、このような善良な面を伝えるエピソードが掲載されるのは珍しい。

3年2組の文集『おもいで』に載っている宮崎の文。

「しょうらいやってみたいこと」。

《大きくなったら自動車をかって、ドライブへいって、しょくどうでカレーライスをたべる。
それで、しんせきにもいったりする。》

実際には、自動車を買って“やってみた”のは、幼女の誘拐であったのだが。

25
「幼い頃の写真を見る限り、病的なカゲはありません。中流以上の家庭で育った子供の顔ですよ。髪を七三にきちっと分け、利発そうな、おしゃれな優等生に見えますよ」

(東京家政大教授〈精神医学〉H氏)[『サンデー毎日』1989.9.10]

26
「マンガを描くのも好きでね。よくノートに描いていた。ネクラじゃなかったし、いじめられるような子でもない。目立たなかったけど普通の小学生だった」

(同級生)[『フラッシュ』]


小学校四年のときの宮崎勤の作文。題は「うちの仕事」。

《うちの工場で、秋川新聞を作っている。タイプで打ったのを紙をはって、薬をぬって、コールタみたいな物を
きかいのローラーにぬって、紙をはる。そして、土曜日に配りに行く。》

27
「小学校の高学年になっても、怪獣の絵の入ったカードを熱心に集めてました。友達が自分の持っていないカードを見せようものなら、かなりしつこく交換をせがむような子供でしたね」

(近所に住む同級生T氏。)[『週刊ポスト』1989.9.7]

28
「おれもそうだけど、勤もメンコを集めたりしてたよね。それと、ちょうどアニメ・ブームに火がついて、『仮面ライダー』とか怪獣ものとかが流行ったんだ。『ヘンシーン!』てやつ。

それまでのヒーローとちがって、ニューヒーローの時代だったよね。クジを買うと、ガメラとかギャオスとかの写真が入っていて、それを集めたり。勤もこだわり気質だったから、よく集めていた」

(小中学校を通じて宮崎と同級生だった青年)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


小学校高学年の時のエピソード。妹とけんかしてかっとなり、「当たると死んでしまうようななにか」を妹に投げつけた。また河原で、何十匹ものトンボの羽を引きちぎっていたことがある。
29
「何をしているのかと思って近づいて、ビックリしました。周りにトンボの透き通った羽が、花びらをまいたように散らばっていた。怖くなって、飛んで逃げ帰りました。トンボだけでなく、よく虫などを殺して遊んでいたので近寄りがたい存在でした」

(近所の遊び友達)「『読売新聞』1989.8.14」

宮崎の異常性を示すエピソードとして、当時あちこちに引用されたもの。何十匹、というのは確かにアレだが、子供時代、無邪気に虫を殺して遊ぶことは、誰しも多少は経験したことではないだろうか。




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