怪獣博士、187の肖像B

高校時代

▲高2の頃

69
「五日市中学から初めて明大中野へ合格した、と校長先生も喜んでくださった」

(宮崎の母親)[『週刊朝日』1989.8.25]

70
「私が国語教師だったせいか、彼の書く文章は、非常に特徴のあるものだったのが、印象に残っています。美文とか名文というのではなく、おもしろい文章を書く生徒でした。
折句というのか、頭の文字を取ってゆくと、ある単語、言葉になる、そんな文章を細かい文字で、びっしり学級日誌に書いたりするんです。

“あくまで”という単語を“悪魔で”と書いたり、そんな文章遊びもよくしていました。文章の中の宮崎は、饒舌(じょうぜつ)で明るい生徒なんですが、実際に本人に接すると無口で暗い生徒なんですね。そんなことが、今思い出されます」

(高校1学年の担任だったM氏)[『文春』1989.8.31]

71
「クラブ活動もせずに、目立たなかった」
(同校教頭)[『サンデー毎日』1989.9.3]

72
「印象がまったくといっていいほどありません。宮崎勤についてと言われても、どの宮崎なんだか――。それほど印象の薄い子でした。
成績も中の下。1、2年の頃からそんな成績だったようです。

遠くから通ってきているのに、遅刻早退がないという意味で問題の無い生徒だったように思っていた気もします。教師に逆らうわけでもないし、自己主張するわけでもなかった」

(高校3年時担任のI先生)[『女性自身』1989.9.5]

73
「宮崎が綾子ちゃん殺しを自供した翌々日、刑事さんがみえました。その時、逮捕後の宮崎の写真を見せられたんですが、そこに写っている宮崎は私の知っている宮崎とは別人のようでした。卒業して8年の歳月があったとはいえ、人間の顔がああまで変わるのかとショックでしたね。

宮崎は、手の障害をバカにされて綾子ちゃん殺しを自供したそうですが、それは嘘です。手の障害なんてありません。だって体育などは相当いい点を取っているんですから」

(明大中野の3学年の担任だったK氏)[『文春』1989.8.31]

74
「長閑な田舎で育った彼は都会の高校に入って、一種のカルチャーショックを受けたんだと思います。そして、スピンアウトされてしまったんです。

入学してからまもなく、先輩から五日市町から入学した宮崎のことを聞き、電話をして“一緒に通学しよう”と誘いました。武蔵五日市は、始発駅。だから彼は座っていけるんですが、僕の乗る秋川駅ではもう満席。座れないんです。それを気にしたのか、彼は座席に座らず、立ったままでやってきて、僕を迎えるんです。
クラスが違うのに一緒に行こうと声をかけたのが、彼にはよほど嬉しかったでしょうね。そこまで気を使ってくれました。

約1時間半の電車内で、彼にいろいろ話しかけるんですが、ただ“ああ”とか“うん”と言うだけで、会話にならないんです。それで、一緒にいてもつまらなくなって、僕のほうから避けるようになってしまったんです。

二年になった頃には、もう諦めたのか、彼は座って眠ってるか、マンガ本を読んでいた。

あれは二年の時だったか、久しぶりに彼と一緒に帰ったことがあったんです。その時、拝島駅で、彼の中学時代の同級生が電車に乗り込んできた。そしたら、彼はすごく楽しそうに同級生と話をするんです。ああ、宮崎も普通に話が出来るんだなあ、と驚いたのをおぼえています。

毎日、重いカバンを下げて、立ちながら、僕を待っていてくれた宮崎。そんな気持ちに応える我慢強さが、あの時の僕にあったなら、彼の高校生活も、少し変わったかもしれない……」

(五日市町の隣町、秋川市から、同じ明大中野高校に通った友人)[『文春』1989.9.7]

『朝日ジャーナル』(1989.8.25)では、宮崎の父親が知人を介して彼の両親に「一緒に通学してくれないか」と頼んだ、となっている。

もし本当に父親が「一緒に通学してくれないか」と頼んだとしたら、少々“痛い”エピソードだ。父親の勤に対する妙な過保護ぶりは随所にうかがえる。唯一の長男として大事にしていたのであろうが。

75
「精神的な転機があったとすれば高校時代ではないか。
都心の付属高校に通うウチの息子も、五日市の子供は、純粋で、都心の高校に行くと文化ショックを受け、劣等感を感じるという」

(中学の担任教諭)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

76
「宮崎君は英語が得意で80点ぐらいは取っていたと思います。国語も70点くらいで、中程度の成績でした。一学期では、五十数人のクラスで二十番くらいだったのですが、二学期の中間評価で突然、四十二、三番まで落ちたんです。

夏休み中にクラブ活動に夢中になって成績が落ちるということはあるんですが、彼には当てはまらない。原因は、結局分かりませんでした」

(高校1年の時の担任教師、M氏)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


同教師は個別面談で、「このままでは明大に推薦入学できない(同校から推薦入学できるのは上位六割まで)と、きつくいったことがある。

77
「普通なら、『がんばります』とか『余計なお世話だ』とか、反応が返ってくるのに、彼からは何も返ってこない。二者択一の設問を用意してやって、はじめてイエスかノーかの反応がある。そんな感じの生徒でした」

(高校1年の時の担任教師、M氏)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

78
「通学の電車で一緒でした。でも、グループの中にいるでもなし、いないでもなし、そんな存在だったですね。車中で、皆の話題といえば、バイクの話、同じ中央線で通学する女子高生の話ですが、僕らがワイワイ話しているのを、横でじっと聞いているだけ、妙な奴でしたね」

(高二の同級生、N氏)


79
「休み時間は、寝るか、一人で漫画を読んでいるかで、通学することだけに体力を使っているようでした」

(同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

高校のときの成績は、

〈1年〉

現代国語3、古典3、数学3、英語4、世界史2、地理2、生物3、美術4、体育2。

〈2年〉

現代国語3、古典2、数学3、英語4、世界史2、政経2、物理3、化学2、美術3、保健体育3。

〈3年〉

国語2、数学4、英語3、日本史2、倫理社会3、物理3、化学3、保健体育4。

高校の3年間、欠席日数は25日。三学年時の欠席は2日。理由のほとんどは風邪。

80
「休み時間も机にかじりついて勉強してました。だから、相当成績はいいと思っていたんですが、一度、通知表を取りあげてみたら、意外に悪かった。あれだけ勉強して、これじゃあ、こいつ相当に頭悪いなと思ったことがあります」

(高二の同級生、I氏)[『文春』1989.8.31]

81
「社会が全く苦手でしたね。特に歴史は赤点とるぐらいひどかった」
(同級生)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

82
「ガールフレンドもいなかった」
(高校同級生)[『サンデー毎日』1989.9.3]

高校の休み時間に、教室に入ってきた虫を、クラスの一人がふざけて宮崎の方に足で押しやり、「踏んでみろ」と言うと、躊躇なく踏み潰し、ニヤッと笑ったという。

83
「とにかくうす気味悪い奴でした。教室で机に向かって何かコソコソやっているから、『何やってんだ?』なんて話しかけると、『いいだろう』とあわてて何か隠したりしました。勉強も、クラスで60番中、40番くらい。
怒りっぽく、笑顔なんて見せたこともないくせに、授業中、先生に指されて発表するときなんか、声がいつもワナワナと震えてました」

(高校の同級生)[『テーミス』1989.8.30]

84
「たまたま席が隣だったんで、3年の時はよく話をしたと思うんですが、とにかく内向的で真面目な奴という印象でした。銀縁のメガネでいつも机に向かってシャープペンシルをノートに走らせていた。

授業中も、よく先生の話を聞いてるなと思うんだけど、試験をするとできてないみたいなんですよね。特にいじめられたわけでもないけど、おとなしくて真面目だから、からかわれやすいタイプだったみたいですね」

(同級生のK・L君)[『女性自身』1989.9.5]


高校の時のあだ名は「大先生」、または「博士」。ピタゴラスの定理を独自に説明しようと執心していたこともある。

85
「おとなしかったし、背も小さかったので、からかわれたりすることも多かったね。“お前のことを相手にするのは、幼稚園の女の子くらいだよ”なんて、いま考えると、ぞっとするようなことをいわれていたこともありましたね」

(級友)[『女性セブン』1989.9.7]

86
「彼みたいなタイプはいじめにあいやすい。でも、相手をじっと上目遣いに見るのが気持ち悪くて、皆、いじめをやめた。“魔太郎”みたいでイヤでしたね」

(高2のクラスメート)[『週刊宝石』1989.9.7]

宮崎は逮捕後の供述で、しつこいくらい「学校では手のことでいじめられた」と語ったが、そのような第三者の証言は皆無だ。逆に、スポーツが得意だったという声は意外に多い。

深刻ないじめがあったなら学校に行くのを厭いそうなものだが、彼は毎日、片道2時間かけて通学した。高校の三年間での欠席数は僅か25日。


四つのコースから選択する高校の修学旅行では、中国地方を選んだ。

87
「萩では、自転車で高杉晋作の銅像を見に行ったんですが、宮崎は全然興味がないみたいだった。あいつはそういうことに興味がないのか、と思った」

(同じグループだった友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

88
「修学旅行の集合写真にも、なぜか彼だけ写ってないんです。たまに写っていても誰かを撮ったものの片隅に入っていたりするくらい。そんな時も、いつも顔をゆがめて嫌そうな感じでした」

(高校の同級生)[『フラッシュ』]


3年時の夏期講習の帰りに東京体育館に泳ぎに行くこともあった。

89
「一見スポーツが苦手なように見えても、彼はなかなかやりましたよ。水泳では、飛込みが上手いんです。飛び板でジャンプして、一回転するんです。身が軽いやつでしたよ」

(友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

90
「英文科志望だったようですが、一、二年の成績から、無理だと思ったんでしょう、三年一学期の面談では、“家が新聞をやっているので、印刷関係の専門学校に進みたい”と言ってきた」

(3年時担任教師)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

91
「宮崎は、どうしても明大に進みたいということもなかったみたい。家が印刷業だから跡を継ぐのでその関係の学校に行くんだと、早い時期に言ってました」
(同級生N君)[『女性自身』1989.9.5]

92
「高校卒業の半年ほど前、電車の中で宮崎と出会った。“大学はどこへ行くんだ”と訊くと、“明大への推薦が取れなかった。家の仕事を継ぐため、専門の短大に行くよ”と、自嘲気味に答えてました。ずいぶん淋しそうだったな」

(中学の同級生)[『文春』1989.8.31]


93
「『明大一部の推薦入学がダメ、二部なら大丈夫と先生に言われた』と言ってました。がっかりした様子で、英語教師の道もそれであきらめたのでしょう」

(中学の同級生。)[『サンデー毎日』1989.9.3]

友人と宮崎の似顔絵漫画が描いてある、高校3年のときの宮崎勤からの年賀状。友人の口から出た吹きだしには「アムロ歌ってくれよ」と書いてある。
『機動戦士ガンダム』のテーマソングを3番まで覚えていて、友人がそう頼むと、小さな声で歌ってくれたらしい。

94
「宮崎はほんとに、あのころは純粋にアニメが好きなアニメ少年だった。いま会ったら、もう一回言ってやりたい。『アムロ歌ってくれよ』って」
(年賀状をもらった友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

珍しく、ちょっと泣かせる?コメントだ。筆者も当時放送された一作目の『ガンダム』にはハマったクチなので、こんなところも身近に感じてしまう。

高校3年の夏休み、宮崎の家へ遊びに行った友人四人がいる。五日市駅で待ち合わせ、秋川で泳ぎ、近所を案内してもらい、自宅に泊まった。風呂に入って、夕食に母親の作った鉄板焼きを食べ、父親も挨拶に出てくる。食後、宮崎勤の部屋でトランプをした。

95
「当時の彼の部屋は広々としていました。ビデオがなくて、本棚はもっとスカスカだった。お父さんは陽気で、アイツに似ていました。お母さんは腰が低かった。普通の家庭でしたよ」

(友人)[『女性セブン』1989.9.14]

96
「あのころはかなりのマンガを持ってました。雑誌は『少年サンデー』『少年マガジン』など、単行本は『ドカベン』とか、特撮ものの図解とか写真集。けっこうきちんと本棚に入ってました。量が多かったのでびっくりしたんですよ」

(3年の夏休みに宮崎の家に泊まりに行った友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

97
「東宝系の特撮物で、ゴジラばかり集めた写真集が自慢でした。『なかなか売ってないんだ、これ。おれだけしか持ってないよ』って、言ってましたから。
アニメのセル画も、何枚か持っていたし、変わってるなと思ったのは、『りぼん』とか『マーガレット』なんていう少女コミックもあったことです。へえ、こんなのも読んでるのか、と思った」

(同)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

この友人は「変わってるな」と感じたようだが、家族に姉や妹がいる場合、本人も少女マンガを読み始めるのは、よくあることだろう。


他にも、友人が家に来たときには、近くのボーリング場へ連れて行ったりした。




C短大時代へ

戻る

トップに戻る
inserted by FC2 system