怪獣博士、187の肖像C

短大時代

▲短大入学時、証明書に使った写真

81年、東京工芸大短大画像技術科に進学。

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「1年のとき宮崎君とおもな授業はいつも一緒でした。いつも顔を見合すから、私たち女の子もごく自然に“おはよう”って声をかけるし、隣の席になれば話しかけもするんです。でも、絶対に彼は答えようとしないんです。笑い返しもしない。視線を伏せちゃうんです。

最初のうちは照れてるのかと思ってたんですが、あまり嫌そうなので、女の子たちも挨拶しなくなったの。別に避けるつもりはなかったけど、こっちもあんまりいい気はしないから」

(同級生のOさん)[『女性自身』1989.9.5]

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「彼はいつも一人だった。たいていグループができて、それぞれ集まって遊びに行ったりしたものですが、彼はどこのグループにも属していなかった。クラスのコンパにも出てこなかった。

陰気で暗いから皆が遠ざけたというのではなく、真面目で勉強しかしない秀才タイプの人間だと思っていたんです。目立たなくて、色が白い人だったという記憶しかないですね」

(同級生)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]


箱根に写真撮影の実習に行ったときは、ひとり、テレビを観ていたという。
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「学生食堂や教室移動のとき、女の子同士で固まって話していると、遠くから、じっと見ているんですよ。にやにやしているんじゃなく、無表情というか、むしろ怒っているような感じでね。
私、最初は宮崎君に朝会うと、『おはよう』と挨拶してたんだけど。逆ににらまれるんで、怖いからやめることにしたんです」

(短大同級生、T子さん)[『テーミス』1989.9.13]

高校時代の何人かの友人とは付き合いがあった。映画やプロレス、テニスとか大学対抗アメフトの試合、サーカスなどを友人を誘って見にいく。

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「切符はみんな、宮崎がクイズなどで当てたものばかりで、たぶん一枚も買ったものはなかったんじゃないかなあ。とにかくすごい量の応募ハガキを書いてましたから」

(友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「そういえば、彼の服装はいつも、ジーパンに襟のあるポロシャツで、オジサンふうだったよね。どっかズレてるっていう感じ」

(短大の同級生)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

『週刊朝日』(1989.8.25)によると、十年来、宮崎家とつき合いがある洋品店店主のAさん(65歳)は、宮崎のスーツを三着仕立てたことがあった。

成人式用のグレーの三つ揃い、昭和56年に仕立てたブレザースーツ、そして、1989年6月半ばに注文を受けた夏用礼服、である。母親に付き添われた宮崎は仕立てに関して自分の好みをはっきり言わない。
しかし、注文通りに仕立てたブレザースーツを「クサい(格好悪い)」と放り投げたことがあるという。

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「短大1年の秋ごろだったかな、『この前、同じクラスの女の子と映画を観に行ったんだ』と言ったんです。『かわいいのか』と聞いたら、『まあまあだな。ぼくより背が高いけど』と照れるわけでもなく、当然といった様子で話していました。話はそれだけだったけれど、めったにないことなので、ほうっと思ったんですよ」

(友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「アイツ、大人の女に興味が無かったなんてウソですよ。アダルト雑誌もビデオも見ていた。“日本人より外人のほうがスタイルがいいから、いいよな”と言って、外人を好んでました。金髪も好きだったみたい」

(10年来の友人)[『女性セブン』1989.9.14]

タレントは、山瀬まみが好きだったという。
短大2年、“グラフィック・アート”クラスへ進む。大学2年のときには、
NHK教育の『YOU』に番組参加者として出演した。番組のテーマは「今カメラマンを目指す君たちに」。糸井重里の発言に笑みをもらす1コマもあったらしい。


NHK教育の『YOU』に番組参加した

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「宮崎は気が小さくて、とろいところがあった。仲間とペースが合わないんです。実習していてひとりだけ遅い人がいるとグループ全体が遅くなる。“ああ、また宮崎か”ってことがよくあった。

ボクらは特にいじめてるわけじゃないんだけど、宮崎は実習仲間や声をかけてくる女のコのことを怖がっていたような気がする。いつもオドオドしていた感じでしたから」

(短大同級生)[『女性自身』1989.9.5]

短大の同級生には、タレントの川崎麻世もいた。

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「クラス80人くらいで、いくつかのグループができていてボクたちのグループにはいなかったけど、とにかく目立たないおとなしい性格。それだけに、ショックです」

(川崎麻世)[『週刊女性』1989.9.5]

川崎麻世は『日刊スポーツ』で、「僕は記憶力が良いし、少人数のクラスだったから忘れるわけがないのに覚えていない」と発言している。
逆に、宮崎は川崎麻世に思い出があった。高校卒業後、半年して会った友人の話。

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「短大の体育祭で呼んだ川崎麻世と話したんだ。あいつ、障害物競走でズルして、いかにも芸能人らしいな」

(宮崎勤)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「一人でパズルを解くなど、いつも傍観者的で静かだった」
(短大の同級生)[『サンデー毎日』1989.9.3]

彼はクイズやパズルの常連投稿者で、この時期、ルービックキューブにも夢中だった。

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「1981年の半ばごろだったが、パズルのページについて、連日のように電話をかけてくる読者がいました。『問題のここは、おかしんじゃないか』『問題文の意味が分かりにくい』といった具合で、マニアックな問い合わせでした。電話の声がなんか押し殺したふうで、ちょっと気味が悪かったですね」

[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「ネチっこく、細かい質問を次から次へと浴びせてくるんです。それも理不尽というか論理的におかしいようなことも、平気でぶつけてくる。
“自分はこういうやり方で点数を出したんだけれど、これが最高点でないのはどうしてですか?”的な質問が多かったですね」

(情報誌のA編集者)[『デイズジャパン』10号]

身勝手な質問に注意を与えると、「Aさん、どうしてそんなことを言うんですか……」と泣き出しそうに言ったという。
一年後、宮崎はパズル解答ハガキの採点と整理のアルバイトを10日ほどする。


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「いくぶん暗い印象はありましたが、電話の声から想像したよりは普通の若者でしたよ。もともとパズルが好きだったせいか、仕事には没頭しているようでした」

(某雑誌パズル担当者)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


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「僕が彼の家のことや将来の希望について聞いても、彼から返ってくる返事は、『アー』という、人をおちょくったような、ぶっきらぼうな単語だけなんです」

(情報誌のA編集者)[『デイズジャパン』10号]

A編集者は、ガールフレンドについての質問もした。宮崎の答えは、『女の子のことは、もう諦めているんですよ』であった。
創作パズル投稿の常連でもあった。パズル雑誌、『パズラー』に一度、自分の創ったパズルが掲載されたことがある。

『パズラー』に掲載されたという宮崎の創作パズルは確認できていない。『ホットドッグプレス』の誤りかと思うのだが。
参照:
宮崎勤の自作パズル


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「熱心さには驚きました。ここが悪い、と指摘すると、『どうしてですか』と、泣きそうな声で、駄々っ子のように繰り返すんです。それでいて、問題を作ってくるときには、若者雑誌特有の言い回しがありますね、『やあ、元気かい』っていうような、あれをそっくり真似てくるんです。それは上手かったですね」

(某雑誌パズル担当)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]




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