怪獣博士、187の肖像D

就職〜家業手伝い・A

▲現場検証に立ち会う宮崎勤

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「父親の紹介で、家業を継ぐための見習いということで、5年の約束で入社した。ところが、印刷機以外の仕事は覚えようとしない。新人研修の時から居眠りをするなど、まったくやる気が見えず、技術もほとんど身につかなかったようだ。3年で退社しました」

(会社関係者)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

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「奥さんが“修業に行かしているんだ”って、言ってらっしゃいましたよ。いつも息子さんのことを“兄ちゃん、兄ちゃん”と呼んでねェ。“会社の帰りが遅いときも、夕飯はちゃんと残してあるんだ”って、嬉しそうに話してました」

(近所の老婆)[『週刊ポスト』1989.9.7]

会社を休むときは母親が電話してきた。

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「とにかくこちらから話しかけないと何も言わない。昼食も一人だけ離れて隅で食べていましたし、仕事が終われば、まっすぐ家に帰って仲間とつき合うこともなかった。

仕事に対する熱意があるわけでもないし、ヤル気もなかった。ただ言われたことだけはやる。仕事を休むときも“明日、休むよ”と言うだけで、別に私に許可をとるわけではないんだ。仕事中だって二、三時間ふっといなくなる。どこに行ってるんだか全然わからないんです」

(従業員)[『女性自身』1989.9.5]

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「会社を辞める前後だったと思います。それまで音信不通だった勤がひょっこり尋ねてきたんですよ。とっつきにくくなったと思いましたね。

彼の部屋にも行ったんですが、何百冊という怪獣の本と、床には20冊くらいのエロ雑誌。それに食い散らかしたミカンの皮が放り出してありました。彼に仕事のことを聞いたら、“仕事は暇だし、だるい。将来、家を継がなくちゃならないから”って言ってました」

(幼なじみ、I氏)

会社を辞めて、86年春頃から、自宅の工場『秋川新聞社・印刷センター』で働くようになる。就業時間は、8時から5時まで。月給15万円。

オフセット印刷機を操作し、刷り上がったチラシの束を得意先の新聞販売店などに届ける。運転免許を取り、日産ラングレーを親に買ってもらう。二週間に一度は平日にドライブに出た。

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「三年前から家業の手伝いをするようになって、また僕の家に遊びに来るようになりました。不思議な男で、いつも赤い色の大きなスポーツカバンを持っていました。中には、将棋、トランプ、それから缶ジュース、ビデオテープが数本入ってました」

A氏)[『文春』1989.9.7]

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「あれっ、こんな勝手なやつだったかなあって思った。すごく変わっていたから」

(中学以来、宮崎とはほとんど会わなかったが、宮崎が家で働きはじめてからまたつき合いができた近所の友だち)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

トランプはあいかわらず好きだった。ゲームはセブンブリッジ、七ならべ等。「トランプをやろう」と誘いに来る宮崎に、「子どもじゃあるまいし、今更トランプ遊びなんかやれるか!」と罵倒する幼なじみもいたという。

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「しかし、ルールを守らないんです。“待った”は二回までと決めても、平気で何度でもするんです。“もう、待ったはできない”といっても、“これが二回目だ”と言い張るんです。そんな時の勤は、まるで子どもみたいでしたね」

A氏)[『文春』1989.9.7]

順番無視をして先にカードをめくる。注意されると、「そんなことを言わずに早くやろう」と声を荒げることもあった。

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「彼は、父親が高価な新しい印刷機械を購入して覚えさせようとしたのに、ついに指一本触れようとはしませんでした。ただ、『これをやれ』と言われたことはやる。土、日だってよく働いたほうだと思います。

ただ、時々、『今日はいないから』と小声で言って、朝の9時ごろ、ふらーっといなくなる。そして日暮れごろそっと帰ってきて、どこへ行ったかも何があったかも話さず、食事だけして部屋へこもっていました」

(従業員M氏)[『テーミス』1989.8.30]

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「時々、勤君に頼まれて、夕方、駅まで自動車で送ったことがありました。勤君は“遊びに無断で行くことをパパに言わないで”と言ってました。私はどこへ行くのか聞きませんでした」

(工場長)[『週刊ポスト』1989.9.7]

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「午前中に10分ぐらい仕事をすると飽きてしまい、自分の部屋に行ってビデオをいじっている。しばらくすると出てきて、また働き出すかと思うと、車に乗って出かけてしまう。とにかくチャランポランだった。さすがに親父も頭にきて、再三、“工場を抜け出すのは困る”と、厳しく叱っていた。だけど、勤は全く聞き入れなかった。

工場長も勤は社長の息子だから、きついことは言えない。親父は広告取りで外回りが多いから工場にはいない。結局、勤は放任状態で、ほとんど仕事をしていなかった。母親は“職業を誤ったかもしれない”と嘆いていたという。本人は“ビデオで身を立てる……”と言ってたそうだけど……」

(秋川新聞社に出入りしていた関係者)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

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「やるときは神経質なくらい夢中なんだよね。刷り上がった紙を何種類か重ねるような仕事があるとね、ちょっとでも汚れがあるようなやつはすぐに撥ねちゃうんだ。そのくらいはいいよと思って、言うとさ、『うるさいっ。手を出すな』って、すごい剣幕で怒ったりする」

[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「昔は彼に向かって挨拶をしたこともありましたが、こちらが『こんにちは』と言っても何も答えないし、目を合わせようともしなかった」

(近所の若者24歳)[『週刊読売』1989.8.27]

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「工場の前を歩いている女の人を見て『なんであいつ、おれのこと、じろじろ見てんだよ』って、怒っているんです。私には、そんなふうに見えませんでしたがね」

(秋川新聞、M氏)[『テーミス』1989.9.15]

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「バイトの女の子が、何気なく店内を見ていたら、一瞬、ある男の人と目が合ったんです。そのときは何事もなかったけれど、しばらくして店に電話がかかってきて、『なんで、さっきおまえはおれのことをじろじろ見ていたんだ』って、怒鳴ったんですって。

『あやまれ、あやまれ』って、あまりにしつこいんで、『すみませんでした』って言うと、やっと電話を切ったそうです。このあいだ、テレビで犯人の写真が出たでしょう。そしたら、その女の子が『おばさん、あのときの変な奴だよ』って」

(五日市町のコンビニエンスストア『タイムズ・マート』の店長)[『テーミス』1989.9.15]

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「廃品のマンガ本の束は子供向けのアニメばかりでしたね。成人の男が見るような雑誌は一冊もなかった」

(秋川新聞工場長、M氏)[『サンデー毎日』1989.9.3]

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「いつも買う雑誌は決まってましたよ。『アニメージュ』と『アニメディア』と『ニュータイプ』。三冊とも発売日が毎月10日なんです。その日になると、朝の9時半か10時に買いに来てました。こんな時間に来るお客は珍しいので、よく憶えているんです」

(宮崎の家から数百メートルの書店の従業員)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

押収されたビデオは5793本。

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「彼はまだ、二、三百本のビデオしか持っていない、というので、私の知っている仲間を30人ほど紹介したことがあります。それと、各地のローカル局でどんな番組を放映する予定があるかの情報も教えました。
いつも奇妙な格好でしたよ。ピンクのシャツに、下はジャージだったり。会っても、立ち話だけで、ビデオの話しかなかったですけどね」

(テレビ情報誌の読者投稿欄で宮崎と知り合ったビデオ・コレクター)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「変なやつで有名でしたよ。なんていうか、独占欲がものすごく強くて、僕はビデオ仲間を20人くらい宮崎に紹介したけど、あいつは一人も紹介してくれなかった。宮崎とは半年ぐらい付き合ったけど、喧嘩別れしたんです。待ち合わせ時間に僕が遅れて、宮崎が帰ってしまったことがあった。そしたら、夜の11時頃電話があって3時間くらい説教されましたよ。こっちが理由を説明して謝っても、同じことをグチュグチュと繰り返すんです」

(ビデオ仲間)[『フラッシュ』]

宮崎がまだ下小平の印刷工場に勤めている頃、埼玉のビデオ仲間の兄弟を訪ねた。この兄弟が宮崎にビデオを入れて送ったダンボールは、真理ちゃんの骨を入れたものと同一であるとされた。

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「ビデオ仲間の紹介で訪ねてきたんです。まだ車を持ってなくて電車で来たんですが、髪は七三に分け、身だしなみはキチンとしてました。ただ、無気力な男、そんな印象だったのを今も憶えています」

H氏)[『文春』1989.9.7]

宮崎はこのとき『ライオン丸』などの特撮物のビデオを数本持ってきており、同じようなビデオを何本か借りていった。




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