怪獣博士、187の肖像F

就職〜家業手伝い・C

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「『所沢の西武に買い物に行くから付き合ってくれ』って。道に迷いながら所沢に着いたが、自分を車内で待たせ、ビデオの生テープ10本と海外旅行のパンフレットをたくさん持って帰ってきた」

(中学時代の同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

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「昨年夏、パズル雑誌『パズラー』に自分が投稿したパズルが掲載されたことを自慢げに教えてくれた」

(同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

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「宮崎はいつも自分の車で迎えに来ましたが、家の外で息子の名前を呼ぶと、息子が出て行くまで、ただ表でじっと待っている。息子が行きたくないのでぐずっていると、宮崎は家の近所を車でビュンビュン走り回った後、また息子を呼びに来る。

宮崎は家には絶対に上がりません。いつも車の中で待っている。顔を合わせても挨拶ひとつするでもなく、とにかく何もしゃべらない。笑った顔なんて見たことがありません。息子と同級生とはとても信じられないぐらい老けた感じで、30歳以上には見えました」

(中学時代の同級生の母親)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

ドライブ中、友人と話の反りが合わなくなると、「降りてくれよ。」と車から追い出すこともあった。

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「彼とは3回ぐらい一緒にドライブに行ったけど、車中でも口数少なく、ラジオやカセットを聴くだけ。ドライブしていてもつまらない。断ってもまたすぐ誘いに来る、ちょっと身勝手なところがあったなあ」

(五日市町で同級のドライブ仲間)[『週刊女性』1989.9.5]

宮崎と一緒にドライブした友人の一人は、「プレステージ」でタレントの稲川淳二らの話す心霊現象特集の録音をずっとかけられ続け、閉口したと話す。

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「気持ち悪いから消してくれ、と言ったんですが、全く聞かずに流しっぱなし。滅入りましたよ」

(友人)[『週刊朝日』1989.8.25]

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「気持ちが悪かったけど、我慢して聞いていたんだ。聞くのは嫌だったね、あんなの。宮崎はハンドルを握って、にやにや笑いながら、ウンウンって、ずうっとうなずいていた。うれしそうな顔だったよ。おれは帰ってからニ、三日、風邪をひいたみたいに背中がぞくぞくして、体が変だったよ」

(同じ町の青年)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

こんな猟奇事件で名前を出された稲川氏も迷惑だっただろうが、稲川氏は宮崎事件をネタに話をでっちあげた、メチャクチャな内容の“創作怪談”を披露しているので、元は取ったというところか。

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「普通の青年が、車を買ってもらうと喜んで、いつも磨いたりするような、そういうのはなかったね。雨なんか降ってくると、埃が筋になって汚くなる。そうすると奥さん(母親)が、『勤、車磨いてやれよ』なんて言って、それでやっと磨くようなね、その程度だったかね」

M工場長)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「宮崎が自分のラングレーを買ったのは2年半前。僕を含めて、友人3人を乗せて富士山にドライブしたんだけど、あのとき走行距離100キロだったのが横浜ドライブのときには4万1千キロ。ずいぶん走ったんだなと思いました」

(7月9日、横浜にドライブした友人)[『週刊現代』1989.9.15]

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「去年の事です。勤が僕に7万円でビデオデッキを譲ったんだけど、それを引き取りに来た時には3万円しか持ってこない。“約束が違うじゃないか”と言うと“金は持ってくると言ったが、7万円持ってくるとは言ってない”って、声を荒げるんです。身勝手なヤツだと腹が立ちましたよ。

それに、うちに来る時は休日の午前中、突然、ヌッと現われるのに、僕があいつの部屋に行くと“今日はダメだ”と戸を開けないことがある。あれも腹が立ちました」

(友人)[『明星』]

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「3年以上前ですけどね。近所の家の風呂場を覗いているところを、入浴中の女性が気づいて、警察に届け出ました。ところが、当時の警察の上の方が、『地元の名士の息子だから』と見逃してやったんです。その前からのぞきがいるというので、近所で問題になり、警戒しているところだったんですよ」

(宮崎の父親の知人)[『週刊テーミス』1989.9.15]

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「とにかく変わった子でね。むっつりスケベというかね。五日市小学校にも行って、『100円あげるから、ジャングルジムにのぼったところを写真に撮らせて』と言って、女の子を誘っていたというからね」

(地元の新聞販売店の店員)[『週刊テーミス』1989.9.15]

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「宮崎は綾子ちゃんを殺害した当日、テニスコートにパンチラを盗み撮りしに出かけていることが、新聞にも出ていましたね。うちの署の強制わいせつ事件(宮崎が逮捕された事件)のときも、実は宮崎はその当日、武蔵野方面のテニスコートで、パンチラ写真を撮っていたんです。パンチラを撮ってから、幼女を誘拐して殺す、これが宮崎の行動パターンじゃなかろうか。そう考えると、うちの署の場合も、間一髪というところだったわけだ」

(八王子署関係者)[『週刊テーミス』1989.9.15]

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「八王子で捕まる一週間ほど前に、『お前も結婚しろ。支店を作ってやるから独立ししたらどうだ』と話したんです。『ウーン』とうなずいていただけでしたが、その後だけにショックです。

女に興味がないんじゃないかと思うぐらい、女っ気はない。ガールフレンドなんていないし、女の子と話すこともなかったんじゃないか。男だから欲望がないはずはないんだが、夜中まで部屋にこもってビデオばかりいじっていた」

(父親)[『週刊朝日』1989.8.25]

宮崎は見合いをしている。

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「もう、四回見合いをしています。いずれも、
Kさん(父親)が勤君に一人立ちしてもらいたい一心で勧めたものです」

(父親の友人)[『週刊ポスト』1989.9.15]

最初の見合いは昭和61年4月頃。最後の見合いはその前の年の11月。

↑この文章原文ママ。最後の見合いがなぜ、最初の見合いの「その前の年」になるのか、意味不明。「逮捕の前の年」の意味か?

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「見合い相手は宮崎の父親と同業で、三多摩地区で印刷会社を経営する人物の24歳になる娘さんだったそうです。都心の短大を卒業し、中央線沿線にある会社のOLと聞いています。見合いについては、宮崎は嫌がったのですが、父親が“同業者同士の義理もあるから”と説得して八王子市内で見合いさせたんです。ところが先方から断ってきたそうです」

(宮崎の中学校時代の同級生)[『週刊ポスト』1989.9.15]

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「最初“どうも”と挨拶しただけで勤君は下を向き、ほとんど話をしなかったそうです。相手のお嬢さんは目の大きいぽっちゃりした人でしたが、勤君の態度を察したのか、相手のお嬢さんもあまり話をしなかったそうです」

(宮崎の親戚)[『週刊ポスト』1989.9.15]

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「お見合いしたのは、本当に結婚するつもりではなく、父親の仕事の関係もありましたので、どうってことない、と軽い気持ちでした。でも、あの人は席につくなり“どうも”と、挨拶したっきり、ほとんど口を開かないし、帰る時も頭を下げるだけで何も言わない。

本当にイヤな感じだったので、すぐに断ったんです。事件のことを聞いたときはゾッとしました」

(見合い相手のOL)[『週刊ポスト』1989.9.15]

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「去年の夏、晴海埠頭で開かれた『88コミケット』(88年コミックマーケット)会場で、宮崎と知り合ったロリコンマニアの知人がいるんですが、その後ときどき情報交換したり、アイドルビデオのバーターをしたりしてたらしいんです。

ところが一ヶ月ほどして、話題がスプラッタービデオになったとき、宮崎はかなりエキサイトして、『ギニーピッグ』は話にならない、自分が監督だったら、あの切断シーンはこうやるんだ、とまるで少女を料理でもするみたいに、一人でしゃべりまくったらしいんです。
話を聞いているうちに、その内容がリアルすぎて、その知人もさすがに気持ちが悪くなったと言ってました」

(少女を盗み撮りするのが趣味という、24歳のフリーター)[『週刊テーミス』1989.9.20]

この証言は信憑性に疑問符がつく。「切断シーン」とあるので、『ギニーピッグ2・血肉の華』のこととは思うが。

「宮崎は『血肉の華』を犯行の参考にした」と、当時盛んに報道された。ところがこの後の10月、警察は「宮崎の部屋に『血肉の華』は無かった」ことを発表するのだ。

記事の日付は『血肉の華』参考説が一人歩きしていた時期であり、この証言はフカシと言うか、作り話の可能性が高い(それにしても紹介に『少女を盗み撮りするのが趣味』と書かれるのって‥‥)。

近所の人間の目撃によれば、宮崎勤は自宅近くで猫を轢き殺してしまうが、平然と車を降りて死骸をドブに捨てたという。

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「両親はもちろん、ふたりの妹ともほとんど口をきかなくなっていた」

(父親の友人)[『週刊ポスト』1989.9.15]

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「私も結婚のそぶりも見せないのはおかしいと思い、父親の
Kさんに、“勤君は手ではなく、下半身に障害があるのでは”と。聞いたことがあります。するとKさんは複雑な表情をしながらも“障害はない”というように、手を振っていたのですが」

(父親の友人)[『週刊ポスト』1989.9.15]

6月に、宮崎は中学校時代の同級生と埼玉県の秩父方面にドライブをしている。宮崎は、助手席に座って友人に道の指示をした。「この辺で、絵梨香ちゃんが殺されたんだね。」と友人が言うと、宮崎は「酷いことをするね」と答えたという。

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「この一年間、毎週決まって一日だけ欠勤していた。何をしているのかなぁ、と思っていましたが……」

(秋川新聞工場長、M氏)[『サンデー毎日』1989.9.3]

6月6日、綾子ちゃん殺害当日とされるこの日、宮崎は近所の駄菓子屋に行っていた。一冊分スタンプがたまると二百円の現金払い戻しがある、スタンプ帳を出して店の人にこう言う。「この間買ったお菓子の分のスタンプを押してください」

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「子供相手のスタンプを26歳の大人が請求してくるのでちょっと変だなと思いました」

(駄菓子屋の人)[『週刊現代』1989.9.9]

6月11日、宮沢湖霊園駐車場で、綾子ちゃんの遺体が発見される。

その10日後、宮崎は町内に住む主婦Aを訪ねる。『秋川新聞』原稿のワープロ打ちを依頼するためだ。主婦Aは88年の秋、生きたまま羽をむしったヒヨドリを手に持ち、うす笑いを浮かべていた宮崎を目撃したことがあった。

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「昼過ぎだったわ。勤君はいつも玄関先で“これ”って言って原稿を置いていくだけ。時には何も言わないこともある。ただ、この日は持って帰ってもらう原稿もあったので、少し待ってもらったんです」

(主婦A)[『女性自身』1989.9.5]

宮崎はその日初めて上がって、お茶を飲んだ。そして帰り際、「ごちそうさま、でした」と言った。主婦Aは一緒に仕事をしている近所の主婦と語る。

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「ネエ、勤君って明るくなったわね。家に上がったのも初めてなら、挨拶もするようになった。よかったね。大人になったのね」

(主婦A)[『女性自身』1989.9.5]

7月23日(日曜日)夕方、宮崎は強制ワイセツ事件を起こし、逮捕される。

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「あの強制ワイセツ事件も、小学生姉妹に“おじさんはカメラマンだ。写真を撮らしてくれないか”と誘い、妹のほうを無理やりハダカにして写真を撮ったんだ。それで姉が父親に連絡して警察に突き出されたんです」

(某社会部記者)[『アサヒ芸能』1989.9.15]

テレビで事件が報道されたとき、雑誌のパズル欄を通じて宮崎をよく知っているA編集者は、納得するものがあったという。


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「宮崎の偏執狂的なイメージ、すぐのめりこむ性質が、あのくぐもった声と共に僕の頭にこびりついていたんです」

(情報誌パズル担当のA編集者)[『デイズジャパン』10号]

自分の娘を裸にして撮影していた宮崎を、数発殴って捕まえた会社員(35)は、警察が来るまでの三十分、「うじうじするから女にもてないんだ。だから、小さい子にいたずらするんだろう。外で力仕事でもして汗かいて、ちょっとは酒飲んで騒いでいればいいんだ。……綾子ちゃんの事件が解決してもいないのに、こんなことして……」と、説教をする。宮崎は黙ってうなだれていた。

やがて、その宮崎が幼女殺人事件の犯人だ、と分かった後のこの会社員の談話。

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「おとなしいあの男が、なぜ、と信じられなかった。私が言うのも変だが、かわいそうに思えてね」

(会社員)[『週刊朝日』1989.8.25]

89年8月10日、宮崎の自供通り、奥多摩町梅沢の杉林から綾子ちゃんの頭骨が見つかる。宮崎の自宅で59歳になる父親は大勢の取材陣に囲まれていた。

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「私だって、テレビのニュースを見て知ったんです。息子がそんなことをするなんて、とても信じられない。はっきりするまで待ってください。ただし、どんな息子だったかはお話しします」

(宮崎勤の父親)[『週刊朝日』1989.8.25]


▲週刊新潮 2006・1・26より

この写真は『贖罪のアナグラム』掲載写真ではないが、この機会に掲載する。

事件報道渦中の頃、深川署から護送される宮崎。両側に警官。怒涛のように押し寄せる報道陣を呆然と振り返っているところのようだ。この写真も、車の窓越しに強引にフラッシュを焚いている。

女児を誘拐しようと周囲の人影をチェックしたとき。死体を捨てるときに周囲をうかがったとき。この男はこの顔をしていたはずである。




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