■脱輪に関する証言
A死体遺棄現場そばの山中で脱輪しているところに出くわした証人が「車は(ラングレーではなく)カローラIIだった」と証言している。
また、その相手は身長170センチくらいだった(宮崎勤は159センチしかない)。
http://kagiwo.blog18.fc2.com/blog-entry-152.html
冤罪派があたかも切り札のごとく持ち出す〈カローラIIの証言〉だ。 結論から言って単なる目撃者の誤認である。
別に、これで終わってもいいのだが(オイオイ)以下、その時の様子を新聞記事から引用する。
●夜間の遭遇
このときの状況は 宮崎の供述と合致する。
――遺体をどこかにすてようと場所を走っている時、車の車りんの一こが、みぞにはまってしまい、動けなくなってしまったのです。
遺体をつんでいるし、だれかにみつかったらこまると思い、ここにすてるしかなかったのです。
遺体を森の中にすててから、車の所にもどってみると、とうりがかりの2人位の男の人が来て、その内の一人の人が私の車を運転して助けてくれました。――
(8月13日の上申書より)
(朝日新聞89年8月19日夕刊より)
目撃者のA氏、T氏らは、飯能市方面から走り来て、脱輪車の正面に車を停めた。図解をするとこんな状況である。
宮崎も目撃者も「辺りは真っ暗だった」と供述している。街灯など一本も無い夜の山道、ヘッドライトは互いの車の前部を照らすのみ。
目撃者の言うカローラIIはハッチバック型、宮崎のラングレーN13はセダン型。その特徴が分かる車体後部は闇に溶け込んでいたはずである。
そんな真っ暗な中で、なぜ後部がハッチバック型と分かったのかが、そもそも不思議な話だ。
ラングレー・N13型 カローラII(88〜90年モデル)
(日産カタログ・トヨタカタログより)
小池壮彦氏の文章では「一人は犯人といっしょに後ろから車を押した」と書いているが、創作である。脱輪車を引き上げるのに後ろから押しても何にもならない。記事の通り一人が運転し、一人が車の前部を持ち上げた、が正解だ。二人は車の後ろに回る必要がなかったのだ。もし本当に後ろから押したのなら、「手触りから明確にハッチバックだった」と断言できるはずだが、そのような証言はどこにも見つからない。どの証言を読んでも「ハッチバックのような気がした」と言っているだけだ。
●確かな記憶なのか?
二人は親切で脱輪車を助けただけで、目の前の男を「もしや連続誘拐犯…?」と思って観察した訳ではない。しかも二人への事情聴取が行われるのは12月27日から。脱輪から18日後である。
仮にあなたが、何かの用で初対面の人と会い、数分ほど立ち話をして別れたとしよう。18日後にあなたはその人の髪型、服装、身長を正確に言えるだろうか?
半月以上前の夜間、時間にして数分間の出来事を、正確に記憶している方がむしろ信じがたいのだ。
●めまぐるしく変わる証言
下右は遺体発見から約2ヶ月後、初めて脱輪の件が報じられた記事。目撃者は脱輪車の色を「白っぽい」と証言していた。宮崎のラングレーは紺色である。
しかも当初言っていた車種は「スターレット」であった。「カローラII」「コルサかターセル」等と訂正し始めるのは5月〜6月以降だ。
(毎日新聞89年4月23日) (朝日新聞89年2月20日)
色についても「白」から「青とシルバーのツートン」と、どんどん変遷していく。
下の記事の日付は何と7月28日。すでに宮崎が警視庁八王子署に強制わいせつ事件で逮捕、拘留中である。この時点でも埼玉県警はカローラIIを追っていたのだ。
(読売新聞89年7月28日)
もっとも、脱輪から半年後にこんな情報を一般に公開されても「どうしろと?」という感じではあるが。
●溝に落ちたタイヤはどっちなのか?
下右は2月20日の記事の拡大。
「9日深夜から10日未明の時間帯〜」も事実とは食い違う。二人は脱輪車を救助した後、秩父市内のガソリンスタンドで給油をしており、それは9日夜8時55分と記録されている。何より困ってしまうのは、当初、脱輪したタイヤを「左後輪」と言っていたことである。89年6月以前はどの記事でも「左後輪」だ。
(毎日新聞89年4月5日) (朝日新聞89年3月9日) (朝日新聞89年2月20日・拡大)
だがこの証言は6月頃の記事から突然、「右前輪」に変わる。右前輪と左後輪では180度逆である。
(毎日新聞89年6月16日)
もし問題の車が左後輪を落としていたなら、車は秩父市方向に正面を向けていたことになる。だがそれは状況的に非常に不自然だ。
犯人は絵梨香ちゃんの衣類を駐車場で投げ捨てた後、自然の家直下のカーブまで進み、そこで脱輪しているからだ。車は飯能市向きだったはずである。一番上の図の通り、それでは左後輪を側溝に落としようがない。
この順序は逆にはならない。自分の姿を見られてしまったのだ。犯人は一刻も早くその場から逃げ去りたかったはずである。
なのに(まだ目撃者らが道路にいるのに)すぐ下の駐車場に車を止め、証拠物である衣類を、悠長に一点づつ投げ捨てたりする訳がないのだ。
絵梨香ちゃんの遺体遺棄と脱輪現場。とてもUターンができる道幅ではない。側溝の反対側はガードレールもない崖だ。
(週刊文春89年8月31日号より)
下は朝日新聞9月20日の記事の抜粋。このように自分が前輪駆動のタイヤを側溝のふちに噛ませて脱出させたというのに、当初は溝に落ちたタイヤの前輪後輪を間違えていた訳である。
全く首をひねってしまう。これでは車種の記憶がどうのこうの以前の話ではないか。
(朝日新聞89年9月20日)
●どっちの方角へ?
さらに驚くのは、脱輪車が走り去った方角すら、日によって正反対の証言をしている。
(朝日新聞89年3月9日) (毎日新聞89年6月16日)
●変わる身長
人着についても、冤罪派は鬼の首でも取ったように「身長170だった」「眼鏡をかけていなかった」を上げるが、実は身長の話もどんどん変わっているのだ。
(読売新聞89年7月28日)(毎日新聞89年4月5日)
引用しだしたらキリがないが、以上のような有様では、二人の話がどこまで信用できるのか全く怪しいものである。
とは言え二人を責めている訳では毛頭ない。こんなトンデモな証言でも、かすかな記憶を必死にたぐったのだろうから。
ちなみに「ギアはマニュアルだった」「八王子ナンバーだった」の証言は事実であった(宮崎のラングレーはマニュアル車、ナンバーは『八王子55・な・293』)。
●目撃証言の危うさ
警察もしかり、宮崎逮捕前までは各種目撃証言から〈サングラスにマスクの中年男〉を犯人と断定し、似顔絵まで公開していた。 目撃証言は振り回される危険が伴うのだ。
大和田徹著「今田勇子VS.警察」(1991/三一書房)より
元中古車業者の証言だから確かだろうという捜査側の先入観と、本人もカローラIIと言ってるうちにそう信じ込んでしまったのであろう。
後に二人は公判で証言するよう要請されたが、出廷を拒否した。この辺りも冤罪説では「警察に圧力をかけられた」等、想像力たっぷりに脚色されるが、単に「もう事件に関わるのは御免」だっただけである。
何しろ情報提供したというのに、一時は「共犯者か?」と疑われ、こってり絞られたのだから。
●いつの間にか「二人は元同業者」に
@この証言者=目撃者の証言は、極めて繊細かつ詳細で、信用出来るということを言いたいのである。
なんとなくうろ憶えの素人証言では無いのであって、そこにはプロの視線があると思える。
http://ccplus.exblog.jp/8752100/
冤罪派は、他の証言や証拠は何一つ信じないのに、この目撃者の証言だけはなぜか“絶大なる”信用を置くのだ(笑)。根拠はと言えば「元中古車業者だから」である。
先入観の恐ろしさを思い知らされる。この先入観のために半年間を無駄な捜査に費やしてしまった警察と同じ事を、彼らは今だに言い続けているのだ。
「元中古車業者が車種を間違えるわけがない」のなら、なぜ最初からスパッとカローラIIと断言せず、スターレット云々とフラフラ揺れていたのか。いや、そもそも前輪と後輪をなぜ間違えるのか。
上に引用した記事を見て頂ければ、とても「繊細かつ詳細で、信用出来る」証言とは程遠いのは明らかであろう。
因みにあちこちで「二人は元中古車販売業」と誤記されてるが、元中古車販売業だったのはA氏一人だけである。
●トヨタのマークを見た?
@〜ハンドルやら何やらに、トヨタのマークが付いているからだ。間違えようがないではないか。彼らプロが、当該の車を”トヨタ系の2ボックスカー”と表現したのは、運転席でトヨタのマークを確認しているからであり(略)
http://ccplus.exblog.jp/8752100/
もし本当にトヨタのマークを確認しているのなら、確かに間違えようがないだろう。
だが筆者は当時の報道記事をはじめ、見つけ得る可能な限りの、この〈脱輪車の証言〉に目を通したが「トヨタのマークを見た」という証言は一行も見つからなかった。
ではこのブログを書いた方は何を見て、彼らが「トヨタのマークを確認している」と書けたのだろうか?
それと“間違えようがないトヨタのマーク”が、これ↓のことを言ってるのなら大間違いである。
このエンブレムがトヨタ社で制定されたのは89年10月。それ以前は基本的にローマ字のロゴである。脱輪のあった88年12月にこのマークが付いたトヨタ車は存在しない。
ネット上のデマを引き写すだけならまだしもだが、妙な作り話を上塗りするのはたいがいにして頂きたいものだ。
●二件の脱輪?
もし宮崎と目撃者のどちらも正しいことを言ってるのなら、同じ時間帯の同じ場所で二件の脱輪があったことになる。そして二件とも〈杉林から車の持ち主が現れ〉〈通りがかりの二人の男〉が助けたことになる。
ほとんど通行量のない冬の夜の山道で、考えられないことだ。同地区でこの夜にレッカー車の出動は記録されていない。遺棄現場付近の脱輪痕は一箇所のみである。
●カローラIIはどこへ?
百歩譲って犯人の車はカローラIIだったとしよう。
ではなぜそのカローラIIは挙がらなかったのか?
脱輪の目撃証言を得てから、宮崎の逮捕までは半年間あったのだ。八王子ナンバーで、色は青とシルバーのツートンなら、相当台数は絞り込めたはずである。
しかも車体下部には脱輪痕があるのだ。修理に出したり廃車処分にしたところで、必ず記録は残る(犯人の証拠隠滅の可能性を考え、それらは当然真っ先に調べられる)。
埼玉県警は警視庁と連絡を取り合い、「ホシの車に間違いない」と自信を持って、極秘に30人の特別専従捜査班を投入した。そして埼玉県内約1000台、東京都内約2000台のカローラIIを調べたが、該当する車両は見つからず、5月頃には捜査をほぼ終了していた。
問題のカローラIIが見つからなかったのはなぜなのか。
そんな車は存在しなかったからである。
●証言を修正?
B〜そして宮崎が絵梨香ちゃん殺害を自供した後になると、会社員の証言も「脱輪車の男は宮崎と同一人物だった」という具合に修正されてくる。
http://www.asyura2.com/0505/bd41/msg/730.html
(毎日新聞89年8月11日)
上は8月11日付けの記事。「身長170だった」の話はどこへいってしまったのか?
8月10日は、まだ宮崎は絵梨香ちゃん殺害を自供していない。だがこの時点ですでに目撃者は「宮崎にそっくり」と言い出してるのだ。
絵梨香ちゃん殺害の上申書の日付は8月13日で、マスコミ発表は14日である。「自供後に証言が修正された」という事実はない。
(朝日新聞89年9月20日)
●決定的証拠
宮崎宅の物置からは、背景にラングレーのシートが写り込んだ絵梨香ちゃんの裸写真が発見されている。絵梨香ちゃんは遺族が本人と確認、シートは日産の技師が同車のものと確認した。
また、ラングレーのトランクからは、絵梨香ちゃんの遺体の手足を縛ったビニール紐と同じ物が見つかっている。
(毎日新聞89年9月22日) (朝日新聞89年8月29日)
遺体遺棄現場でのタイヤ痕と、ラングレーの交換前のタイヤパターンが一致。そしてラングレーの右前輪と車軸をつなぐロアアームに、地面と激しく接触しなければつくはずのない傷がついていたのだ。
(朝日新聞89年8月19日夕刊)
冤罪派はこれらの事実をまるで知らないか、見ないフリをし、とうの昔に誤認だと決着がついている「車はカローラIIだった」を、今だに延々とくり返している。
きっとこれからも言い続けるのだろうが、その前に一度くらいは、なぜ絵梨香ちゃんの写真にラングレーの車内が写っていたのかキチンと説明してほしいものだが。
●全てを否定する小笠原氏
小笠原和彦氏は著書で、鈴木淳二弁護人から上記の絵梨香ちゃん写真を見せられ、困り果てた様子を書いている。
小笠原和彦著「宮崎勤事件夢の中―彼はどこへいくのか」(1997/現代人文社)59〜60ページより
だが小笠原氏はこの後、根拠らしい根拠も無しに「あの写真は警察の捏造だ」と言いだすのだ。
冤罪派が三度の飯より好きな言葉だ。それを言い出したら何でもアリである。片っ端から証拠捏造でOKなら、この世から未解決事件などとっくになくなっているはずではないか。
写真加工ソフトなど出回ってない時代に、母親が「絵梨香に間違いありません」と言うほどの捏造写真をどうやって作ったというのか、教えてほしいものだ。
また、上の文章に「会のパンフレットにも書いてなかった」とあるが、これはおかしな話である。氏が鈴木弁護士の事務所で写真を見せられたのは92年の5月頃、「M君裁判を考える会」のパンフ発行日は91年の6月だ。そこには写真のことがちゃんと書かれている。
パンフ「M君は真犯人か?」(1991)25ページより
氏は、ご自分の会のパンフすらちゃんと読んでおられなかったのだろうか。
●「見なかったことに」
その後小笠原氏らは目撃者の一人、T氏宅を訪れ、彼の母親から「子供が言ってるのはトヨタなんです」と聞き「やはり脱輪車はラングレーではなかった」と書く。だがこれは、氏が絵梨香ちゃん写真を見せられた後のエピソードなのである。
そして驚くことに彼は、そんな、単なる母親の代弁を聞いただけで「私たちは、浮き浮きしていた」となり「我々は宮崎が犯人ではないといういくつもの確証を得た。調査は順調だった」と、著書の最後で結ぶのだ。絵梨香ちゃん写真のことなどキレイさっぱり忘れたように。
●神の言葉?
宮崎の冤罪を信じる人にとっては、もはや〈カローラIIの証言〉は疑うことなど考えられない“神の御言葉”のようだ。彼ら信者にとっては他のいかなる証拠も、存在しないし、目に入らないようである。
●木下教授の“断言”
「M君裁判を考える会」代表、故・木下信男教授は、明治大学の論文集に宮崎冤罪説を書いた。まず前半で、1948年の最高裁判決文から以下のように引用する。
と、した後、この脱輪車の件については、
明治大学教養論集「裁判と倫理学」(1994)より
と、キッパリ断言している。ならばお尋ねしたい。脱輪車がカローラIIだったという動かない、物的証拠はあるのですか、と。
カローラIIという車種は目撃者が証言で語ったのみである。脱輪現場にカローラIIが実在した痕跡は何一つなかった。そんな“幻の車”を大学教授ともあろうお方が、ここまで信じ込んでいるのだ。
もっとも、お尋ねしようにも木下教授はすでに故人であるが。
●黒のプレリュードの顛末
なお、今野さん宅付近を深夜徘徊していた不審な〈黒のプレリュード〉も捜査対象になっていたが、そちらはこういう事であった。
(読売新聞89年9月16日)
●12月15日前後
余談だが、この絵梨香ちゃんの遺体が発見された12月15日前後は、宮崎の中の凶獣的なパワーが、出口を求めてうずいていたかのような時期である。
自分の車も姿も見られてしまった。捜査の手が及ぶかもしれない…脱輪から数日間、宮崎は気が気でなく、ピリピリしていたに違いない。
ところが遺体発見のニュースでは、脱輪車の件は全く報道されなかった。宮崎は心から安堵したであろう。
そこで舞い上がった?のか、数日後、難波さん宅に〈絵梨香〉→〈かぜ〉→〈せき〉→〈のど〉→〈楽〉→〈死〉のハガキを、今野さん宅には〈魔が居るわ 香樓塘安觀〉(入間川のアナグラム?)のハガキを送っている。同じ頃父親から、集金した金の行方を問われて激昂、父親を病院送りにするほどの怪我を負わせている。
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