■綾子ちゃんの遺体とDNA鑑定

Aこれらの遺体についてDNA鑑定は行われず、単に血液型で判別しただけである(当時、すでにDNA鑑定は可能だった)。
http://kagiwo.blog18.fc2.com/blog-entry-152.html 


「これらの遺体」と一括りに書いているが、綾子ちゃんの遺体のみ
DNA鑑定が行なわれていた。

だが綾子ちゃんの
DNAは腐敗で分解しており、両親から採取したDNAと比較しても、親子関係すら同定できないという有様であった。当然裁判には証拠として提出されていない。

このとき、現帝京大学法医学部の石山教授らによって用いられた鑑定法は〈DNAフィンガープリント法〉である。

同時期に科警研もこの
DNAフィンガープリント法を導入していたものの、犯罪捜査に使うにはあまりにも欠点が多いことが分かり、同年には使用を中止している。


>当時、すでにDNA鑑定は可能だった

鑑定が可能なことと、正確な鑑定が可能だったかどうかは別問題である。少なくとも当時のDNA鑑定はまだ試験的な段階に過ぎず、発展途上の未熟な技術であったのだ。




●“新兵器”?MCT118型法

その後研究が進み、一年後の90年に、微量な試料からでも鑑定が可能な〈MCT118型法〉という分析法が開発される。

その
MCT118型法による鑑定が犯罪立証の決定的な証拠とされ、DNA鑑定が脚光を浴びたのが、栃木県足利市で幼女が殺害され、元幼稚園バス運転手が逮捕された「足利事件」であった。
その後の足利事件の顛末は、多くの方が記憶に新しいところであろう。

足利事件の当時、我々一般人にとってDNA鑑定のイメージは「科学の粋をこらした、究極の個人識別法」等、マスコミからさんざん美辞麗句を吹き込まれてのものであった。「よくは分からないけど、何となくスゴそうな鑑定法」が、大方のイメージではないだろうか。

だがこの頃の鑑定法は、抽出したDNAのバンドパターンを目視、つまり目で見て同一かどうかを見比べるという、現在のコンピュータによる解析とは程遠い、原始的なものであった。


もちろん、現在は格段に
DNA鑑定の精度は上がっていよう。だがDNA鑑定とは今のところ、血液型のA型、B型等と同じように、染色体の塩基配列の「型」を判別するだけのものに過ぎない。

同一の型を持つ人が大勢いるのである。まだDNA鑑定に〈犯罪立証の切り札〉のイメージを持たせるのは危険であろう。ちなみにこのMCT118型法は、現在はすでに使用されていない。




●胃の内容物が一致


>単に血液型で判別しただけである

綾子ちゃんの遺体の鑑定のことを言ってるのなら、事件について何も調べておられないようだ。

(朝日新聞89年6月13日)

6月11日に発見された女児のバラバラ遺体は、血液型その他の身体的特徴が綾子ちゃんと一致。下腹部に小さな痣があり、若干の出臍であった。
これらの特徴は父親が本人のものと確認(母親はとても確認に同行できなかった)。また、宮崎の部屋から発見された遺体ビデオの体にも同じ特徴が確認されている。

胃に残留していた内容物のトウモロコシ、キュウリ、スイカの種などは、失踪当日の保育園の昼食内容と一致。決め手になったのは、母親が証言したヒザの傷の治療痕であった。

(毎日新聞89年6月13日)

死後推定時間は5〜6日で失踪の日とも符合。そして、同じ時期にこうした特徴、条件に該当する失踪女児は、綾子ちゃんの他にはいなかったのだ。



●「遺体は綾子ちゃんではなかった」?

DNA鑑定―科学の名による冤罪」(2006/緑風出版)という本がある。著者は三浦英明氏(共著)。
この三浦英明氏は「M君裁判を考える会」の会員で、木下教授、小笠原和彦氏らと共に、宮崎勤の冤罪を主張しておられる方である。

彼らは実際に足で歩いて証言者に当たり、調査を行なっている。筆者としては(その主張は別として)そうした活動に一応の敬意を払いたいとは思っている。ネット上に無責任なデマを垂れ流している輩とは一線を画すべきであろう。

これは96年に刊行された同名の本の増補改訂版。96年版には驚くべきことが書かれている。

宮沢湖霊園で胴体部分が見つかった遺体は
「綾子ちゃんではなく、別人だ」と言っているのだ。DNA鑑定でそう証明されたというのである。

増補改訂版の発行は06年。10年を経たら何か新事実が書かれてるのでは?と思い、読んでみた。

……ビックリであった。

綾子ちゃんの遺体の
DNA鑑定についての記述が、一言一句変わっていない。つまり親子関係が同定できなかったという、石山氏らの鑑定結果を根拠に「遺体は綾子ちゃんではなかった」と、現在でも主張しているのだ。

遺体の腐敗により高分子
DNAが採取できず、正確な鑑定とは言えなかったことに対するフォローは(今回も)何もない。
DNAフィンガープリント法が科警研で使用を中止されたのもこのためである。腐敗したり古くなって分解したDNAにはこの鑑定法は不向きであり、犯罪捜査に使えないからだ。


犯罪学雑誌(90年6月)より

このように一回目の鑑定では〈親子関係の有無が判断できなかった〉だけで、〈別人と証明された〉などとは誰も一言も発表していない。
三浦氏が勝手に都合よく、すり替えているのだ。




●再鑑定

石山教授らはその後、別の鑑定法〈HLADQα型法〉で再鑑定をしている。

これは
HLA遺伝子の型を判別するもので、結果は99.8パーセントの確率で母子と認められる、というものであった。さらにミトコンドリアV領域の一致、HBウィルス陽性反応も母子と一致し、「親子関係は矛盾しない」とした。

だが三浦氏はこの再検査を「警察の意向に沿った結果を出すため」と、どこまでも疑いぬく。99.8パーセントの確率は「とうてい高いとは言えない」のだそうである。

99.99999‥‥と、小数点以下の9が膨大に並んで、初めて高い確率と言えるらしい。


そして石山氏の「親子関係は矛盾しない」という発言を「だからと言って綾子ちゃんと断定するのはおかしい」「一つでも遺伝形質が合致しなければ親子関係を疑うべき」と言う。

親子関係が不明瞭とした鑑定の方は信用し、親子だと認めた鑑定の方は信用しない、という訳である。




●「とにかくシロだ」

「親子関係が同定できなかった」という表現が→「だから別人だ」

「(部屋で遺体を切断したことを)疑問視する捜査員」という表現が→「捜査員も不可能だと言った」

「子供が言ってるのはトヨタなんです」が→「やはり宮崎の車はラングレーではなかった」

彼らの著書にはこうしたレトリックが満ち満ちている。少しでもグレーを匂わせる発言は、強引にシロに変換するのである。


また、疑わしい記述も散見される。

ほんの一例だが「夢の中―」に、「真理ちゃんの骨を自宅前の畑で焼いたことになっているが、家が隣接していて無理だ、と
M は言った」との記述がある(M とは工場長)。

だが下の写真を見てほしい。これのどこが「家が隣接」しているのだろうか。本当に
M 氏はこんな発言をしたのだろうか。


アサヒグラフ89年8月25日号より

赤矢印は焼却炉。左上が宮崎の自宅、秋川新聞社。畑の白い線は捜索用の区割り。


それはともかく、まさか10年を経ても、宮沢湖霊園で見つかった遺体を今だに「綾子ちゃんではない」と言っているとは思いもしなかった。彼らのこの頑なさは何なのだろうか?



●なぜ反証せず?

逆に「遺体は綾子ちゃんではなかった」と主張するなら、なぜ弁護人を通じて公判で反証材料としなかったのだろうか?一番疑問に感じる点である。

96年の時点でそこまで確証があったのならば、一審には間に合わなかったとしても控訴審で訴えることはできたはずだ。実際に足利事件の弁護団は、
DNA鑑定の証拠能力の信用性について、民間に鑑定を依頼してまで争っている。

「綾子ちゃんとされた遺体は別人」だと「
DNA鑑定が証明している」のならば、他の件はいざしらず、少なくとも綾子ちゃんの死体遺棄容疑に関してだけは、宮崎の無実を晴らせる可能性があったではないか。




●足利事件では

「科学の〜」の中で三浦氏は足利事件の章も担当している。

ところが、綾子ちゃんの〈親子関係を否定した〉鑑定結果には高い信用をおいているはずの氏が、足利事件ではDNA鑑定の未熟さや証拠能力の低さを諄々と説き、

「このように『
DNA型鑑定』とは、あいも変わらぬ警察のやり方に科学的な装いをもちこんだだけである」

と、バッサリ切り捨てて章を結んでいるのだ。同一人が書いたとは思えないほどに。




●謎の幼女

素朴な疑問なのだが、では問題の遺体が綾子ちゃんでないのなら誰だと言うのか。

綾子ちゃんと血液型、体格、身体的特徴、胃の内容物も同じの“別人の”5歳の幼女が、綾子ちゃん失踪と同じ日に殺され、首手足を切り取られて捨てられたことになるのだ。三浦氏の言っていることはそういうことではないか。


綾子ちゃん事件は、一連の不気味な連続誘拐事件で、世間の不安がピークに達していた頃の発生である。同じ年恰好の幼女が二人も続けて失踪したら、大きく報道されたはずだ。もう一人の子の親も行方不明の届けを出したはずである。

20年を経ても正体不明の屍の幼女は誰なのか?だいいち、そうなると〈本物〉の綾子ちゃんはどこへ消えてしまったのか?

三浦氏は〈綾子ちゃん本人とされた〉頭蓋骨の鑑定については、特に異議を唱えていないようである。では綾子ちゃんは宮崎の手の中に首だけを残し、体は忽然と消えた、とでも言うのであろうか。




●トンデモ系?

「9・11事件の真相と背景」という本がある(2002/木村書店)。三浦氏はここで、木村愛二という方と共著として、名を並べている。


この木村愛二という方、詳細はよく存じ上げないが、ナチスのホロコーストやアウシュヴィッツのガス室は嘘だと否定し、イスラエルの陰謀説をあちこちにバラ撒き続ける、バリバリのリビジョニスト(歴史修正主義者)のようである。

木村書店なるものの代表として数々の妄想本を自費出版し、論争や訴訟をふっかけては大活躍?という、個人的には半径10メートル以内に近づきたくない人物だ。


「9・11事件の真相と背景」は未読だが(読むつもりもないが)、目次を見る限り「9・11事件はイスラエルのモサドとアメリカ極右勢力による自作自演だった!」といった内容のようだ。いったいユダヤ人に何の恨みがあるのかは知らないが、ご苦労様なことである。

三浦氏はここで「ベテラン刑事」と呼ばれているようだ。どんな主張をされてるのかは知らないが、こういった方と組んで活動されるようでは、トンデモ系の人と位置付けるより仕方がない。


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