■宮崎勤 逮捕現場・自宅跡
1989年7月23日、八王子市の美山町で9歳と6歳の姉妹に声をかけ、妹の方を裸にし写真を撮ろうとしていた男が、通報により強制わいせつの現行犯で逮捕される。

8月9日の夜、拘留され取調べを受けていた男、宮崎勤・26歳は恐るべき供述を始めた…


●逮捕現場



八王子市美山町、美山街道。八王子市街からはかなり離れているが、宮崎宅からはほんの2〜3キロの距離にある。採石場が多く、砂利を積んだ大型トラックがひんぱんに通り過ぎる。

右側は日枝神社。この路上に宮崎は車を停めたと思われる。

鳥居の写真を撮っていたら、地元の方から「神社巡りですか?(^-^)」と声をかけられた。「いえ、宮崎勤事件の現場巡りです」とはさすがに言えず「はぁ…(作り笑い)」と口を濁す。



境内の敷地にある児童遊園。宮崎は遊んでいた姉妹に「おじさんはカメラマン。写真を撮らせて」と声をかけた。まず姉妹の警戒心を解くためにノーマルな写真を撮る。そのときの4枚の写真は、公判で証拠提出されている。

いったん二人を川原沿いに奥へ連れて行くが、案外と開けている上に民家もあるので、目的の写真を撮るには(ここでは危険だ)と思ったのだろう。



その後、姉の方に「ここで待ってなさい」と言い置き、妹だけを道路反対側の林道へ連れて行く(写真中央。アスファルト道ではない方)。
検察側冒頭陳述の番地ともピッタリ一致するので、この林道に間違いない。


林道を進んで行くと、右の、水が涸れた小さな沢に出る。ここで宮崎は妹を全裸にし写真を撮ろうとするが、光量不足でシャッターが下りず、写真は存在していない。

筆者が訪れたのは冬だが、確かに夏場であれば鬱蒼と木が生い茂り、かなり薄暗くなる場所と思われる。そのような所でフラッシュ無しでは、シャッター開閉に5〜6秒かかることはあり得るので、焦った宮崎は故障と勘違いしたのではないだろうか。




異様な空気を察知した姉は「妹が変なおじさんに連れて行かれた」と、自宅へ父親を呼びに行った。父親の会社員、Nさんは蒼白になって沢へと駆けつける。

宮崎は慌てて林道の奥へ逃走するが、ラングレーは駐車したままである。「車のナンバーを覚えたから逃げても無駄だ」のNさんの怒声に、観念して引き返した。

宮崎はNさんに殴られるも「警察を呼ぶのは勘弁してください」と、全くの無抵抗であった。バス停にいたNさんの同僚が通報、ミニパトが来るまでの数十分間、Nさんは「綾子ちゃんの犯人もまだ捕まってないのに、こんな事してお前……」等と説教をしたという。



●自宅跡


(共同通信社)                                    (毎日フォトバンク)

89年当時の宮崎宅、秋川新聞社。赤枠は宮崎の自室。



自宅跡。事件後、住む人のいなくなった家は解体され、更地となった。土地は売りに出されたが、20数年経った今でも買い手はつかず、有料駐車場となっている。一時は工事用の資材置き場にされていたが、それら資材も朽ちて、ツタがからんでいた。

筆者が初めて訪れた05年の夏には、盆踊りのやぐらが組み立てられていた。今でも夏場は、地域の人々の盆踊り会場として利用されているようだ。

右写真、坂道になった石垣の手前辺りに、宮崎のあの“ビデオの部屋”があった。




入り口に設置された料金所。利用者が料金をポストに入れる、田舎の無人野菜販売所のような素朴なシステムだ。


更地奥から道路側を眺める。かなり広い敷地で、地元の名士だったという話もうなずける。中央、今野真理ちゃんの遺骨を焼いたという畑は、現在も使用されている。

奥の山は日向峰。この山の向こう側に今野真理ちゃん、吉沢正美ちゃんの遺体が放置されていた。



更地の一番奥、垣根越しに小さな稲荷がある。目の前の地で生まれ育った男の行状を、この稲荷はどんな思いで見ていたのだろうか。


●東京拘置所



東京都葛飾区小菅、東京拘置所。宮崎が逮捕から死刑執行まで、19年間住まった場所である。

東拘は97年より改築され、近代的なビルに生まれ変わっている。宮崎は03年から執行までの6年間をこの新庁舎で過ごした。



近くで見ると威圧感満点の建物だ。

「塀の中」とよく言うように、刑務所や拘置所と言えば高いコンクリート塀がその象徴だが、新庁舎では全て撤去されている。完全なハイテク警備による管理のため、そんな前時代的な物は不要となったようだ。



正門前。写真を撮っていたら警備の職員に追っ払われてしまった。

‥‥というのは少々言い過ぎ。カメラを構えた筆者を見つけた職員が、遠くから両手を合掌のように合わせ「撮影は勘弁」のジェスチャーをした。気がつくと無断撮影禁止の立て札もあった。慌てて一礼し、そそくさと退散。拘置所を探訪にきて拘置されても困る。



内部の撮影は不可能なので、以下2枚は時事通信社より転載。

時事通信社より

宮崎が最期まで暮らした三畳間の独居房。数十分の運動、入浴、面会、出廷以外は1年365日をこの中で過ごす。座っている人物はモデル役の東拘職員(けっこうノリがいい)。

時事通信社より

2008年6月17日午前、宮崎の死刑が執行された東京拘置所地下刑場。
2010年8月27日、法務省は刑場を初めてメディアに公開した。それまで秘中の秘とされてきた部分の公開は、長い行刑史上、極めて異例なことである。

上下二部屋の構造になっており、上の執行室で死刑囚は首に絞縄をかけられ、踏み板が外されると同時に下の部屋にぶら下がる、その一部始終を、立会室から一望できる造りとなっている。

やはり刺激的過ぎるからか、天井から下がっているはずの絞縄は外されている。また上の部屋はカーペットや、きれいな化粧板で内装されているのに、下は冷たい無機質な空間なのが印象的だ。中央の黒い四角部分は排水溝。



●雑司ヶ谷霊園



東京都豊島区、雑司ヶ谷霊園。この広い霊園の一角に“法務省 納骨堂”がある。引き取り手のない獄死者や死刑囚の遺骨は、無縁仏としてここに納められる。



霊園を奥へ進むと、通気孔?のみで窓のない、異様な建物が見えてくる。



             幼女連続殺人鬼「宮崎勤」が眠る「獄死者」納骨堂の霊気

東条英機や泉鏡花、小泉八雲ら著名人が眠る東京都豊島区雑司ヶ谷霊園。 鬱蒼とした緑が茂るこの霊園の一角に、高さ1.8メートル程の鉄柵に囲まれた、コンクリート造りの平屋の建物がある。(中略)

「母親に”お線香をあげたいのですが”とお願いすると、”全部、拘置所にお願いした”と。遺体の引取りを拒否したようです」(ある知人)
かくして、宮崎の遺骨はこの納骨堂に納められたという。

法務省関係者によれば、
「堂内には地面から50センチほどの高さに設置された祭壇があり、壁面をグルリと囲むように骨壷が安置されています」

この場所には何人も立ち入りを許されず、白壁のたたずまいは刑務所を彷彿とさせる。 死してなお、塀の外には出られなかった宮崎勤。享年45。

(週刊新潮2011年1月6日号より)



納骨堂正面の鉄扉。この中に宮崎の遺骨が納められているのか……

被害者ゆかりの地ではお供えと黙祷をして去ったが、彼の霊にだけは手を合わせる気になれず、回れ右をして立ち去った。




再び五日市

小和田橋上から残照の秋川を望む。

自宅跡は何度も訪れているが、この緑豊かな美しい風景と、あのビデオで埋め尽くされた部屋の映像はどうしても結びつかない。




筆者は宮崎と同世代である。子供の頃は同じように“怪獣博士”と呼ばれていた。彼ほど経済的に裕福な環境では育たなかったが。
あの日、ビデオの部屋の映像が流れた瞬間、全てを察してしまった。「ああ、自分と同類だ」そして「何て事をしてくれたんだ」と。



子供の頃に見たアニメや特撮への偏愛‥‥対人関係の拙さ‥‥社会に出て一人立ちせねばならない憂鬱‥‥犯した犯罪を別にすれば、彼にはどこか共感と親近感を感じていたのは事実である。

当時、同じように感じた人は多い。実際、マスコミは「宮崎」と呼び捨てだったが、同世代人の多くは「宮崎さん」「宮崎君」と呼んでいたものだ。
もしも偶然が重なっていたら、彼とは友人付き合いをしていたかもしれない。

それだけに、この事件に対する複雑な思いは、あれから二十年以上経っても消えずにわだかまり続けている。

事件が起きた現場は、とうの昔に日常に復帰した、ただの“場所”に過ぎなかった。そこでは、今だに事件へのわだかまりから逃れられない自分だけが置き去りにされ、立ち尽くしたのみであった。




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