小池壮彦「宮崎勤――疑惑の死刑執行」を検証する
―その4―


●「ビデオを隠せ」




疑惑の死刑執行」より

この“ある友人”に関する記述は、小笠原氏の「宮崎勤事件 夢の中〜」における、最大級に不可解な部分だ。

これについては残念だが、当サイトでは真偽を検証できる材料を持ち合わせていない。

ある友人とは、宮崎の短大時代からの友人“Y”である。逮捕直前まで交友があったという。公判での調書にも証言者としてその名が出てくる。

問題のセリフは、小笠原氏と三浦英明氏による、宮崎の母方の伯父“I氏”へのインタビュー中に登場する。

8月10日、マスコミが押し寄せて大騒ぎの宮崎宅の様子を語っている場面だ。I氏は「その夜、
Yという男が来た」というのである。


小笠原和彦著「宮崎勤事件夢の中―彼はどこへいくのか」(1997/現代人文社)122〜125ページより。
個人名の部分は当サイトで修正。

この発言に関してだけは小池氏の言う通り、意味深長としか言いようがない。

何気なく読めば、Yは遺体ビデオのことを知っていて、それを隠せ!と忠告しに来たように見える。宮崎も「まだそれを言うのは早い」と本当に言ったとしたら、二人が共犯関係にあったイメージがおぼろげに浮かんでくる。
被害者の幼女を撮った遺体ビデオは、宮崎にとって最高に自慢できる「誰も持っていない宝物」だ。1年近くも、誰にも見せず死蔵していたとは考えにくい。
この発言が事実なら、Yは宮崎以外にただ一人、問題のビデオを見せられた人物、という可能性が浮上してくる。
だがよく読むと、この場の情景は実に奇妙なのだ。

8月10日の夜は、宮崎宅は警察によって完全に封鎖されており、家族と親族しか立ち入りできなかった状況である。


(共同通信社)
規制線が張られた宮崎宅。中央にパトカーと警備の警官。

この中にYが潜り込めたというのも首をひねる話だが、そもそもI氏という方は、普段、秩父方面に住むただの親戚のご老人で、ビデオマニアでも何でもないのだ。

宮崎家が大変だと知って、妹(つまり宮崎の母。当時55歳)を励ましに来ていただけなのである。ましてYは宮崎と同級生の27歳。前後の発言を読んでも、YとI氏はそのときが初対面だ。

そのYが、60歳前後のI氏に対していきなり「ビデオを隠せ」とは、いったいどういう脈絡なのか。
「ビデオを隠せ」と宮崎に言ったのなら分かる。だがこのとき宮崎は八王子署に拘留中なのだ。Yも当然それは知っていたはずである。全くもって不可解なシチュエーションだ。


Yは共犯者では…?というI氏の疑惑ももっともである。無論これだけの大事件だ。当然Yも参考人としてみっちり調べられ、警察調書も検察調書も取られている。宮崎の数少ない友人として、マスコミからも連日取材攻めだったようだ。

筆者も当時のニュース映像で、Yとおぼしき人物が、背中を向けたインタビューでボソボソ語っていたのを記憶している。


アサヒグラフ89年8月25日号より

その後Yは取材を一切拒絶。小笠原氏らが住所を突きとめて訪ねるも、Yの母親に追い返されたという。
万が一、いや億が一、Yが共犯者だとしたら、宮崎はYをかばっていたのだろうか。しかしYは宮崎にとって有利な証言を何一つしていないのだ。

そんな
Yをかばって、宮崎は口をつぐんだまま、秘密を絞首台の上まで持っていったのだろうか。死刑確定後、命乞いをするかのようにあわてて再審や恩赦の請求をしようとした宮崎が、そこまで義理堅い男だったのだろうか。
もっとも、以上は、小笠原氏の「夢の中〜」に書かれていることが事実ならば――という前提での話だ。

実は調べれば調べるほどこの「夢の中〜」には、事実かどうか疑わしい記述が多々存在する。それについては未だ調査中だが、判明ししだい、こちらにもリンクを張る予定である。



●追記・2014・5

上記の〔●「ビデオを隠せ」〕に関連して、追記。

実は改めて読んでみればみるほど、小笠原氏の本に登場する、I氏の発言は奇妙キテレツなのだ。

小笠原氏の「宮崎勤事件 夢の中〜」120〜126ページは、木下、小笠原、三浦氏ら〈M君〜会〉の面々がI氏宅を訪問し、インタビューをしている箇所である。

I氏は、事件報道が始まった89年8月10日の出来事について話し、その中にYの「ビデオを隠せ」発言が出てくるのだが、I氏は他にこんなことも語っている。


「宮崎勤事件夢の中―彼はどこへいくのか」より。

これはどういうことかと言うと、Yは「ビデオを隠せ」と言った後、宮崎の母親と妹二人を連れ出し、二日間ほど、練馬の家でマスコミの取材攻勢からかくまっていたと言うのだ。

だがこの話は全くのウソッパチである。なぜなら宮崎宅では、翌11日の朝から大規模な家宅捜索が始まっており、家族はそれに立ち会っているからだ。

そもそも10日の夕刻から、宮崎宅は警察が24時間警備を開始しており、マスコミの取材陣も徹夜で張り付いていたのだ。その中をどうやって連れ出したと言うのだろうか。

さらにI氏は〈M君〜会〉の面々に、以下のようなキッカイな話をしている。冤罪の調査と称し、退職した元刑事が、I氏宅を訪れたというのだ。


同上

本当にこのような人物がいたなら、それは宮崎の冤罪を主張する〈M君〜会〉にとって、貴重な援軍となったであろう。

だが何の資料を見ても、その後、このような人物が活動した形跡はどこにも見当たらない。

「コピーありますか」と訊かれたI氏は、探しもせずに「どっかへやっちゃった」と即答している(もっとも、その場のやり取りがどんなものであったかは、小笠原氏の文章だけでは何とも言えないが)。

「どっかへやっちゃった」のが分かっているなら、何の理由でこんな話を振ったのだろうか。

この元刑事なる人物の行動も奇妙だ。具体的な地名は書かれてないが、I氏宅は宮崎宅から「車で30分」という、結構な遠方である。

I氏は普段宮崎宅には殆ど近寄っていないので、事件のことも、甥っ子である勤の普段の様子なども、詳しく知っているはずがない。そんなI氏の所に、この元刑事はいったい何を聞きに来たというのだろうか。

そもそも冤罪の調査なら、弁護人なり、この〈M君〜会〉なり、他にもっと接触すべき人物がいたはずではないか。

この元刑事なる人物は本当に実在したのか?そうなると〈M君〜会〉が訪問した際の、I氏の第一声も奇妙なものに感じる。

同上

ということは、元刑事なる人物は味方と思っていなかったということか?(笑)。全く???だ。

もしやこのI氏という人は、虚言癖でもお有りなのでは…?なんてことをつい思ってしまう。それほど、冷静に読めば、このI氏の話はメチャクチャなのだ。
インタビュー後、小笠原氏は、話の内容を改めて確認するため、I氏に電話をかけた。そこではI氏はこんなことを言っている(「その人」とはYのこと)。


同上

Yのことを「もしや勤の共犯では」と言っていたのは、I氏御自身である。それがこの電話では、手のひらを返したように「共犯とか、悪い方へ思わないでくれ」と言っているのだ。いったいこの人の話は、どこを信用すればいいのか?

まさか、そんなおかしな人ではないとは思うが、この文章中の発言を見てると、まるでわざとキテレツなことを言って〈M君〜会〉をたぶらかしているようにすら見えてしまう。何しろ「Yが10日の夜に三人を連れ出した」などと、真っ赤なウソをついている人なのだ。
これでは、まことしやかな事実として小池氏らが書いている、Yの「ビデオを隠せ」も、宮崎の「まだそれを言うのは早い」も、出所の信憑性という意味では、非常に疑問符が付くもの、と言わざるを得ないだろう。


不動産業者“N




疑惑の死刑執行」


ざっと20冊以上出版された宮崎事件関連本、膨大な取材記事――

それらの中でこの“不動産業者・
N”の話が登場するのは、有川正志著「死者よりの嘆願書」という自費出版本ただ一冊のみである。

小池氏は出典を明示せず、この“N”の話をパクり、あたかも事実のように書いている。上記の本がどれだけイカレてるかは、別項トンデモ電波本「死者よりの嘆願書」に書いた。


隠された“証拠”?




疑惑の死刑執行」


長々と引用してしまったが、要するに、

「宮崎は一審の途中から統合失調症の投薬を受けていた。その事実が隠されたまま死刑判決が出たのはおかしい」ということのようだ。
いったい何を勘違いしておられるのか知らないが、判決の資料とされるのは、あくまで「犯行時の精神状態」である。

そのための三度もの精神鑑定であり、結果、刑事責任能力有りとされたのだ。逮捕された後、拘禁ストレスによって統合失調症になろうが腸捻転になろうが、そんなことは判決とは全く関係がない。
ある殺人犯の被告人が、拘置所のドアに指を挟むか何かして、ケガをしたとしよう。

「見てください裁判長。私はこの通り指をケガしているので、絞殺なんかできる訳ありません。だから無罪です」と言ってるようなものだ。裁判長からすれば「アホかお前」であろう。


「夢のなか いまも」(創出版)275〜279ページには、拘置所での統合失調症の投薬に関する、弁護人の弁論が掲載されている。

確かにそこには、吐気を訴えた宮崎に対し、胃薬としてスルピリドが96年から処方されたと書かれてる。

だが宮崎が幻聴を訴えだし、ハロペリドールも同時に投薬されるようになったのは、控訴審以降の99年からだ。いずれにせよ一審判決とは何の関わりもない話だ。


もっとも、上で「控訴審弁護士の報告」として引用されてるのは、田鎖麻衣子弁護人の発言である。小池氏は田鎖氏の主張をそのまま引き写してるだけなので、この点について小池氏を批判するのは、お門違いではあるのだが。




疑惑の死刑執行」

ひそかに薬漬け……何だかもう西村寿行とかの世界だ。

「宮崎は94年から薬漬けで、強制的にぼうっとさせられていたので、公判で罪状を明確に否認できなくされていた」――こう言いたいようである。

第一審の公判は全38回、そのうち宮崎が肉声で答えた被告人質問は僅か6回。それらは94年以前に終わっているのだ。
96年7月に、最後の被告人質問が行なわれている。もし本当に薬漬けにされていたなら、さぞやロレツが回らない状態のはずであろう。

佐木隆三著「宮崎勤裁判」をお持ちの方は、第37章「最後の質問」を確認してみて欲しい。宮崎は裁判長、弁護人らの質問に、何と
48ページ分に渡り、滔々と受け答えをしているのだ。
一審は90年から始まっているが、薬漬けにされた?という94年以降、宮崎の態度がおかしくなったという話はどこにもない。
「着席と同時に左手で頬杖をつき、後は閉廷までピクリとも動かない」という彼の態度は、初公判から最後まで一貫していたのは有名だ。
ミステリーごっこもいいが、ルポライターを自称するなら、せめて時系列くらい調べてから書かれては如何か。

参考までに。一審を全て傍聴した作家、佐木隆三氏のコメント。

(毎日新聞06年1月11日より)


もし本当に宮崎が統合失調症になったとしたら、「被告人に訴訟能力なし」として公判の停止手続きや、刑の執行の停止手続きが検討されたであろう。

ただしそれは現在のオウム真理教、麻原(松本)死刑囚のように、ろくに会話もできず、面会に来た自分の娘の前でオナニーを始めたり、自分で排泄の処理もできずオムツをはかされてるという、重篤な状態となった場合だ。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/63db65c218a5ee890796ceededb22c87

宮崎は死刑確定後も「創」の篠田編集長と300通以上、12年に渡り、ちゃんと普通の文章で手紙をやり取りしており、「絞首刑は人権の軽視だ」等と書き送っている(「最後の依頼」参照)。98年と06年には著書まで出しているのだ。
しかも確定後自ら、あわてて再審や恩赦を請求しようとしていた。そんな“常識的”な行動をとりながら、一方で「統合失調症の薬を処方されているから精神病だ」などと主張しても、裁判官、いや、子供が見ても「そんな都合のいい話は通らないよ」であろう。



最後に

筆者はけっこう怪談モノが好きである。小池壮彦氏の怪談本も、以前読んだことがある。そのとき「なかなか面白い」と思ったものだ。

宝島社発行の「心霊写真」など、日本の“心霊写真史”を膨大な資料から考察した力作である。また、近年は原発や天皇制など、幅広いジャンルのルポを発表している。


そのような御仁がなぜ、2005年以降、こと宮崎事件については、かくも悪質なデマを撒き散らして恬然としているのか。


もちろんライターとしての事情もあるだろう。雑誌の性質上、おどろおどろしいホラ話に仕立てた方が受けるのかもしれない。

様々なジャンルの記事を書いている氏である。氏にとって宮崎事件は、そのジャンルの一つに過ぎないのだろう。

だが、現実に4人の幼い少女が理不尽に殺され、それぞれの家庭が崩壊したこの事件を“ネタ”にし、ウソや捏造を駆使して怪しげな陰謀話をバラ撒くがごとき行為を、黙って見過ごす訳にはいかない。



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