宮崎勤事件とは

●概要


1988年から翌89年にかけて、埼玉と東京で4〜7歳の4人の幼女が次々と失踪、白骨遺体やバラバラ遺体で発見されるという、猟奇的な連続誘拐殺人事件である。

第一の幼女失踪から半年後の89年2月、第一の被害者宅前に、何者かによって女児の骨が入った段ボール箱が置かれる。その後「今田勇子」と名乗る人物が〈犯行声明〉や〈告白文〉をマスコミに送りつけ、事件は異様な展開を見せる。

同年8月、幼女への強制わいせつ容疑で逮捕されていた印刷業手伝い、宮崎勤(26歳)が一連の犯行を自供。供述通りの場所から被害者女児の白骨遺体が発見される。

その後の調べで、宮崎は殺した女児の遺体をビデオ撮影していたという、ショッキングな事実が判明。

また、宮崎の部屋は子供向けの特撮やアニメを録画した、約6000本のビデオテープで埋め尽くされ、その趣味嗜好がいわゆる“おたく”的であったことから、同じような趣味を持つ者への偏見を助長した事件でもあった。


発生地図




時系列

事件の流れ

宮崎勤
1988 5月 a a 16日

(宮崎勤、短大を卒業後、86年から自宅印刷工場に勤める)

宮崎の祖父が散歩中に脳溢血で死亡。享年91。以後宮崎の、
粗暴な行動が目立ち始める。

a 8月 22日 埼玉県入間市で今野真理ちゃん(4歳)失踪。 13日 宮崎、コミックマーケット34にて同人誌「アイドルスターCM集602」販売。

23日(真理ちゃん失踪の翌日)、中野区高円寺のレンタル店でビデオカメラを借りる。
a 10月 3日 埼玉県飯能市で吉沢正美ちゃん(7歳)失踪。 a a
a 12月 9日 埼玉県川越市で難波絵梨香ちゃん(4歳)失踪。 a 山中に放置した今野真理ちゃんの遺体を何度か観察に出かける。また、遺骨の一部を焼いて齧ったと後に供述(日時不明)。
a 12月 15日
埼玉県立〈名栗少年自然の家〉付近で難波絵梨香
ちゃんの全裸遺体発見。現場道路に脱輪痕。

20日頃、今野さんと難波さん宅に不審なハガキ届く。
18日 父親から集金した金の行方を問われて激昂、父親の頭を車の
ドアにぶつける等の暴行。後日父親は入院。
1989 1月 a a 7日 宮崎、ラングレーの左側面と前部のバンパーを修理。
a 2月 6日 今野さん宅玄関前に骨入り段ボールが置かれる。
中には女児の衣類写真と「真理 遺骨 焼 証明 鑑定」と書かれた紙片が。
a a
a 2月 10日 朝日新聞東京本社に〈今田勇子〉名の犯行声明が届く。「骨は別人のもの」とした誤発表に抗議する内容。 10日 父親の手術の日、車中で母親から「まじめに働かないと近所に
知恵遅れと思われる」と言われて激昂、母親を殴打する。



(朝日新聞社)
1989 3月 11日 朝日新聞東京本社と今野さん宅に〈今田勇子〉名の
告白文が届く。
26日 宮崎、コミックマーケット35にて同人誌「マンモスコング・
月光仮面」販売。
a 5月 a a 21日 江東区の東雲小学校で女児のパンチラをビデオ撮影。
a 6月 a a 1日 昭島市内の小学校で4歳女児のパンツを脱がし、性器を撮影。逃走時、腕時計を落とす。
a 6月 6日 東京都江東区で午後6時頃、野本綾子ちゃん(5歳)
失踪。
6日 宮崎、同日午後7時半頃、高円寺のレンタル店でビデオカメラを借りる。
a 6月 11日 埼玉県飯能市、宮沢湖霊園のトイレ脇で、野本綾子
ちゃんの遺体の胴体部分が発見される。
27日 宮崎、近所の御岳神社に捨てた綾子ちゃんの頭部を回収、水洗いした後、奥多摩町の山林に捨てる。
a 7月 a a 10日 秋川市内のカメラ店に、テニス少女のパンチラ写真の現像を
依頼。
a 7月 23日 八王子市美山町で、幼女を裸にして写真を撮ろうとしていた宮崎勤を、幼女の父親が取り押さえる。

通報により、八王子署員に現行犯逮捕。
23日 同日、テニス少女のパンチラをビデオ撮影。三鷹市内で7歳
女児の性器を撮影。パンツに手を入れるも抵抗され、逃走。
- 8月 10日 -宮崎の自供に基づき、奥多摩町の山林で野本綾子ちゃんの頭蓋骨発見。翌11日、宮崎を殺人・死体遺棄容疑で再逮捕。



(毎日新聞89年8月11日)
1989年 8月 14日 宮崎、今野真理ちゃんと難波絵梨香ちゃんの殺害も自供。
a 9月 1日 奥多摩湖畔で野本綾子ちゃんの下アゴ発見。警察庁、本件を広域重要指定117号事件に。
a 9月 5日 宮崎、吉沢正美ちゃんの殺害を自供。翌6日、五日市町日向峰の山林で正美ちゃんの遺骨発見。
a 9月 13日 五日市町日向峰の山林で、今野真理ちゃんの遺骨発見。



裁判〜死刑執行まで
1990年 3月 30日 第一回公判。宮崎、事件について「さめない夢の中で起きた」「(綾子ちゃんの)両手は食べた」と発言。
1990年 4月 25日 第二回公判。「私の車とビデオを返してほしい」「(事件は)別の島のこと」
1991年〜
1994年
a a 2度の精神鑑定で公判中断。「ネズミ人間が現れて幼女を倒した」「もう一人の自分が現れて肉物体をビデオに撮った」
1994年 11月 21日 宮崎の父親、多摩川の橋の上から投身自殺。享年65。宮崎、父親の死の知らせに「胸がスーッとした」
1997年 4月 14日 第38回公判。死刑判決が言渡され、結審。即日控訴。判決の感想は「目の前に机が無くて頬杖がつけなくて困った」
1999年 12月 21日 東京高裁で控訴審(第二審)開始。幼女の遺体切断について「改造人間の改造手術をした」
2001年 6月 28日 高裁で控訴棄却。一審に続き死刑判決。「(法廷では)何も聞いてません。寝ていました」
2006年 1月 17日 最高裁で上告棄却、2月1日死刑確定。判決について「あほか、と思います」「何かの間違い。そのうち無罪になる」
2008年 6月 17日 東京拘置所で宮崎勤の死刑執行。享年45。


戻る
inserted by FC2 system