18・差別裁判




「狭山事件 一問一答 冤罪論の疑わしさをめぐって」より


>狭山事件の捜査に部落差別が影響したとみるべき根拠はどこにもありません

Wolfgangがそのように脳内で妄想するのはご勝手だが、悪いが、そんな妄想と現実の事件は関係ない。

なぜ養豚場が

石田養豚場主・一義氏の自宅に刑事らが来たのは、5月3日の朝である(佐野屋での犯人逃走の大ドタバタ騒ぎから数時間後のこと)。
そのとき刑事らは、養豚場に出入りしていた関係者ら多数の情報を集めている。その者たちの捜査を視野に入れていたのは疑いがない。
3日朝の時点で、善枝さんの事件と養豚場関係者を結びつける証拠や証言は何もなかったはずである。佐野屋の逃走騒ぎの後、なぜこんなに早々と養豚場への捜査が始まったのか。「養豚場が怪しい」というバクゼンとした見込みなしには行なわれない動きだ。

17.でのWolfgangのお説「ならず者が警戒されるのは当然」だからか。それ自体が予断と偏見以外の何物でもない。

※注―佐野屋からの逃走

3日早朝、佐野屋から逃走した犯人の匂いを警察犬に追わせたが、一頭は川越方面に、一頭が不老川の土手で止まったという(資料本の中には『警察犬は養豚場へ進んだ』と書かれたものもあるが、デマ)。

その地点から養豚場へ行くには、さらに200メートルほど行って権現橋を渡らねばならない。犯人がそっちへ逃げたなら、警察犬はその匂いを追ったはずだ。

また、権現橋は各主要道路が交差するポイントで、「車出いく」を信じ込んでいた警察は当然刑事らを張り込ませていた。そこへ犯人がノコノコ行ったなら、そこで捕まらなかったのはおかしな話だ。

そもそも事件当時、養豚場の番小屋での寝泊りは廃止されていた。犯人が養豚場へ逃げる理由がどこにあったのだろうか?


発見の翌日に“断定”

翌4日に善枝さんの死体発見。その後の6日に、警察は(まるで前もって準備するかのように)石田氏からスコップの盗難届(上申書)を出させている。

11日、すでに捜索済みの場所から(???)スコップが見つかる。翌日警察は、

11日に見つかったスコップが、12日に善枝宅から500メートル離れたブタ小屋石田一義さんで盗まれたものらしいことがわかった。

(63年5月13日 読売新聞夕刊)

と、当の石田氏に確認もせず、土壌分析の結果も出ないうちから「発見されたのは養豚場のスコップ」と、断定したかのように発表した。

これにより“埋められていた死体”と“養豚場のスコップ”が、人々の中でイメージとして結合する。
ちなみに余談。下の5月13日付けの記事では「鑑定の結果、スコップの土は農道の土と一致した」などと書かれている。(記事全文は画像をクリック)。

朝日新聞 1963年5月13日より

だがスコップの土壌鑑定を行なった星野鑑定書の冒頭には(鑑定の嘱託を受けたのは)5月16日とあるのだ。

つまり、まだ鑑定など始めてもいないのに「土質は一致」などとウソ八百を書いている。全く呆れかえるガセネタだ。

“首狩り”

かくして同地区の二つの被差別部落に、公然と捜査が集中することとなる。捜査令状もなしに、部落民120人前後が筆跡を採取され、養豚場関係者30人近くの筆跡、唾液が採取されたのだ。指紋や唾液を採取するには通常、身体検査令状が必要なはずなのだが。

そして、部落外でそのような捜査をされた者はいない。

※その120人分の分厚いアリバイ上申書は、現在も検察が保管しているとのこと。


当時の衆議院議員で部落解放同盟書記長、田中織之進氏は、捜査の様子をこのように語っている。


「一週間にわたって、部落と外界との交通が遮断されて、警察がほとんど軒並みに立ち並んで、それに報道班が入って、まったく昔の首狩りのようなかたちでやっている」

(衆院法務委員会での質問)

警察の被差別部落への不当な集中捜査に、地区の代表二名が抗議をしている。当時の竹内狭山署長が、そうした抗議があったことを二審第41回公判で認めている。

普通に捜査が行なわれたのなら、そんな抗議などは起きようはずがないではないか。

マスコミもタッグを組んで

石川氏が逮捕された5月23日、サンケイ新聞にこのような記事が書かれている。


(略)埼玉県狭山署の捜査本部は23日、有力容疑者として、死体発見現場の近くに住む土工石川一雄(24)の逮捕にふみきったが、この事件は意外にむずかしかった。脅迫状といい、身代金二十万円の受け渡し現場のようすといい、

「犯人はこの部落のものにちがいない。逮捕は時間の問題―」

こうした確信を、捜査本部は事件をめぐるさまざまの状況から早くからもっていた。

(63年5月23日 サンケイ新聞埼玉版夕刊)


「さまざまな状況から、部落のものが犯人の確信をもっていた」という。その「さまざまな状況」とは、以下の3点。


@3日午前零時、犯人が中田さん宅近くの狭山市堀兼の「佐野屋」(この呼び方は土地の者しかしらない)わきを身代金の受け渡し現場に指定してそこに現れたこと

A四十人の包囲陣をしり目に深夜の茶畑に消えたこと

B中田さん宅に犯行当日「脅迫状」をもって現れたことなどの点―。

この線から捜査本部はまず「佐野屋」と中田さん宅のある堀兼部落の素行不良者、前科者などを捜査線上に浮かべた。


これらをもって、なぜ部落に疑いの目を向けることになるのか、さっぱり分からない。

@佐野屋の呼び方は「土地の者しか知らない」と言うが、逆に近所一帯の「土地の者」は知っている訳で、それがなぜ部落民に限定されるのか。

A深夜で真っ暗な畑道を縦横に走り、包囲陣から抜け出たのだから、犯人は畑道をよく知っていたのだろう。しかしそれがなぜ部落民とつながるのか。だいいち養豚場で働く者が、なぜ他人の農家の畑をよく知っていることになるのか。

B中田家の様子を知っていたのだから、「土地の者」が犯人なのは誰でも分かることだ。それを「部落」と結びつけるBは何の理由にもなっていない。


長兄氏の発言


「石川は近所の養豚所に勤めていた。私は以前からこの養豚所が事件になんらかの関係があるとにらんでいた。ぼくなりの推理を働かしても、どうしてもこの線が消えないんですよ」

(63年7・8『週刊文春』)

石川氏再逮捕の報を受けての、中田家長兄のコメント。この後「仏壇の鐘がチンと鳴った」なるオカルトめいた話と、「土工なら(死体を埋めた)土の処理は慣れてたはずだ」という話を語っている。

「以前から」というセリフに引っかかる。

石川氏が(別件で)逮捕されたのは、事件発生から一ヶ月近く経った5月23日である。するとその間、長兄氏はどういう推理を働かして「養豚場が何らかの関係があるとにらんでいた」のだろうか。

“カンの捜査”


駐在所員「事件が落着してみると、やはり本部はたいしたものだと感心した。そして“カンの捜査もやり方によるなあ”と考え直しもした」

(7/7『アサヒ芸能』)

これは石川氏が(ニセの)自白をして、世間的には〈ついに犯人逮捕、事件は無事解決〉となったことを受けてのコメント。

「カンの捜査」とはもちろん、捜査幹部らの「犯人は部落のものに違いない」という“カン”である。

奥富氏のアリバイ

14.で触れた奥富玄二氏だが、彼のアリバイの認定も疑問だ。

犯行日5月1日の午後5時頃、玄二氏とは自宅で一緒に酒を飲んでいたと、親戚の奥富定七氏が供述している。このため玄二氏はアリバイ有りとして、捜査の線から外されている。

親類のアリバイ証言を認めるなら、石川氏の「1日は夕方から家族と家にいた」も認められて良いはずである(だから奥富氏が怪しい、という意味ではもちろんない)。そして石川氏は部落民だが、奥富氏は部落民ではない。


救援会は否定?


国民救援会は、「狭山裁判=差別裁判」説を否定しています

国民救援会は部落解放同盟による「差別裁判」なる規定と、その運動方針を否定しているのであって、石川氏の冤罪そのものは否定していない。

下のリンク先にも書かれてる通り、初期には弁護団の活動を、

〈数あるえん罪事件の弁護活動の中でも例をみない優れたもの〉とし、救援会の会長自身が

〈『部落民へのねらいうちだ』として捜査本部にしばしば抗議〉した程である。

だがその後、日本共産党系の国民救援会と解放同盟は、徐々に運動方針の違いによる確執がこじれ、二審以降決裂した。救援会及び日本共産党は(意地を張って?)、解放同盟の規定である「差別裁判」の呼称を使わないだけである。

そうしたゴタゴタと、部落を狙い撃ちした差別的な捜査が現実に行なわれたこととは、何の関係もない。こうした、わざとゴッチャにして誤解させようとする書き方は、Wolfgangお得意のテクニックだ。

救援会側の主張はこちらのページに詳しい(非常に一方的なものではあるが)。狭山事件と救援会

(ちなみに『解同』は、日本共産党系の側が使う蔑称なので、一般人は使わない方が吉。その逆は『日共』)


正木氏の発言はどこに?


正木ひろし弁護士も「狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになる」と批判しています

この正木氏の発言?は、朝日新聞1974年11月1日からの引用となっている。上記の救援会のページにそう書かれており、他のネット上のページでもソースはどれも同じだ。

当該号の正木氏の論説を読んでみた。ところが上のような発言はどこにも書かれていない(クリックで拡大)。

朝日新聞1974年11月1日より

これはどういうことなのだろうか。救援会の記述が誤りなのだろうか。出典元を御存知の方は、ぜひとも御教示頂きたい。

※注―出典元

佐木隆三著「ドキュメント狭山事件」によると、『赤旗』1975年3月版の「日本共産党の見解」なる記事に、非常によく似たニュアンスの文章がある。これがどういう訳か、正木氏の発言にすり替わった可能性が高そうだが?

●Wolfgang自身が証明


捜査に部落差別が影響したとみるべき根拠はどこにもありません

白々しく「事件と部落差別は関係ないよ」みたいな物言いをしているが。

50年前の部落民に向けられた偏見や石川犯人説を、タイムスリップしたごときに現代にバラ撒く、このWolfgangのページそのものが、現代でもいかに部落差別が陰湿で根深いものかを、これ以上なく証明しているではないか。




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