21・犯人が家の場所を尋ねた?




「狭山事件 一問一答 冤罪論の疑わしさをめぐって」より


「恐ろしかった」

脅迫状が中田家に差し込まれる直前、近所の内田幸吉宅に、一人の男が自転車を押して現れ「中田栄作さんの家はどこですか」と尋ねたという。内田氏は、そのときの男は石川氏にそっくりだったと証言した。これが“内田証言”である。

内田氏はこの不審な男の目撃を、なぜかすぐには警察に届け出ていない。氏が届け出たのは、石川氏が逮捕されて二週間近く、目撃から一ヶ月以上も経った後なのだ。

その理由を内田氏は「ただ恐ろしかったのです」としている。

〈そのうちに入間川四丁目の石川と云う青年が犯人として捕った事を知り益々恐ろしくなって誰にも話さない決心を前よりも強く致しました。

と申しますのは四丁目の人達は団結して多勢で押掛ける事がありますので万事をしゃべったためにおどかされるような事があってはと心配したからです〉

(6月5日付供述調書)

この供述自体が、度し難い差別と偏見丸出しだ。誰かが証言したからといって、部落民が大挙して押しかけたなどという事実はない。
しかも部落民と当時の左翼過激派をダブらせて、偏見を増幅させようとしている、Wolfgangの文章の無知と陰湿さたるや。

脅しをかけた?


>内田幸吉宅には1964年9月29日、石川の補佐人の荻原佑介という政治ゴロが押しかけて脅しをかけた形跡があります

Wolfgangの、タチの悪いでっち上げ話である。そんな“形跡”があるなら見せて頂きたい。1964年9月29日と、妙に具体的な日付でリアリティーを出そうとしているようだが。

内田氏が一審とはうって変わり「よくわかりません」等、しどろもどろな証言をしたのは、1966年5月31日の二審法廷でである。

ハァ?“脅しをかけた”なる日付と、証言をした日付が2年も離れてるんですが?ウソはもっと上手につくものだ。



>内田幸吉は石川に不利な証言をすることで放火・暴行・火炎瓶投擲などのテロ攻撃を受ける可能性もありました

時系列がメチャクチャでお話にならないのだが。中核派や社青同解放派らが、裁判所関連にテロ攻撃を始めたのは、1969年以降である。

その数年も前の66年に、起きてもいないテロになぜ内田氏は怯えなければならないのか(笑)。しかも一般人の証人に対して、テロや暴行など行なわれていない。


犯人の不思議な行動

石川氏は(ニセの自白中で)脅迫状を届けに行く途中、善枝さんのカバンを捨てた理由をこう述べている。

〈カバンなんかくっつけて自転車に乗っていると、誰かに見られたときにまずいと思って外した〉
(6月29日付供述調書)

そう思ったのならなぜ、カバンどころか素顔を晒して、殺した相手の家の場所を近所の人に尋ねるのか。

被害者宅の所在を知らなかったはずの犯人が、なぜ善枝さんがいつも自転車を置く位置
に自転車を置けたのか。

※注―カバンを捨てた理由

この供述も不自然だ。自白では自転車からカバンを外して万年筆を取り出し、脅迫状を訂正したことになっているのに、これではその後、また荷台にカバンを付け直したことになる。

※注―自転車を置く位置

「納屋の軒下にはたまに置く程度で、普段、自転車は母屋の土間に入れていた。だから『いつもの位置』は誤り」という話もある。

だがこのとき母屋では家族が食事をしていた訳で、そこへ犯人がガラガラと戸を開けて自転車を入れる訳がなかろう。むしろ『たまに置く場所』を知っていたなら、そちらの方がはるかに奇怪だ。

内田証言の奇妙さ

ともあれ、内田証言は奇妙なところが多い。一審での証言はこうである。


内田氏:髪の毛は雨でこう、下がっていましたがね、今まで見せていただいた時にはこう、なんでもなかったけれども大体なんですか、この、毛のぐあいがよく似てると思いました。

検察官:今ちょっとうしろを見てね、石川を見て下さい。

内田氏:(うしろを見て)そうです、そうです、この人です。

(一審第5回公判調書)「狭山事件を検証する」狭山事件 内田証言の検証 より


警察署での面通しの際、石川氏の髪の毛は雨に濡れてはいなかったはずである。なのに内田氏は、雨に濡れた髪の状態を引き合いにして「毛のぐあいがよく似てると思った」と言っている。

そもそも検事に「後ろを見て下さい」と促されて見たときの石川氏は、拘置所に収監中のため丸刈りであったのだが。

供述でも、着衣などは覚えていないのに「自転車は中古だった」と、妙なところは覚えているようなのだ。夜7時半の雨の暗がり、40ワットの玄関灯から3メートル先での会話だったというのに。


捏造証言?

一審では石川氏が“自供”していたため、安心して「そうです、そうです、この人です」と言えたのだろう。だが二審では石川氏は無実を主張しているのだ。

さすがに内田氏も、無実を主張している本人を目の前にして「そうです、そうです、この人です」と言えるほどの鉄面皮ではなかったのだろう。

二審でのやりとり。


弁護人:(被告人席の石川一雄を指し示し)証人は、そこにいる人に前に会ったことがあるか。

内田:ありません。

(二審第17回公判調書)「狭山事件を検証する」狭山事件 内田証言の検証 より


「ありません」も何も、被告人席に座っているのは、自分が一審で「そうです、そうです、この人です」と断定した石川氏本人なのは、記憶を手繰らなくとも分かりきったことではないか。

こんなものを「時間が経って記憶が薄れた」など、茶番もいいところだ。

この内田証言は、今日ではまず、たいていの事件研究者から「検討に値しない捏造証言」としか評価されていない。

なぜ6月5日に届け出たのか?

それよりも気になるのは、内田氏がこんな証言を、なぜ目撃から一ヶ月以上も経って届け出たのか、だ。すでに石川氏が逮捕され、部落の青年の悪質さがさんざんマスコミによって喧伝されていた頃である。

内田氏は(やはり犯人は部落民だった)と知り、「益々恐ろしくなっ」たと言ってるではないか。ならば口をつぐんでいた方が安心なのに、なぜ届け出たのか?発言と行動が全く矛盾している。

実は、この届け出た時期にはヒントがある。


“突破口”

石川氏は別件で逮捕された後も、本件の善枝さん殺しについては頑なに否認していた。拘留期限の6月13日は迫っている。このままでは本件で起訴できない…と、捜査側はかなり焦っていたようだ。下は新聞の見出し。


難渋する「石川」調べ――予想外に固い口――捜査本部にあせりの色――(日本経済新聞6月2日)

下は6月7日の記事。

朝日新聞 1963年6月7日より

(「石川って奴は、まだ白状しない強情な野郎だ」と言わんばかりのニュアンス。殆どの記事がこんなトーンである。)


本項1.4.で触れた養豚場経営者・石田一義氏。彼は善枝さんの件ではとっくに容疑が晴れていたにも関わらず、なぜか(この時期の)6月4日に窃盗の容疑で逮捕された。

この別件逮捕を、6月5日の埼玉新聞は「石川追求の“突破口”ねらう」と報じている。これはどういう意味なのだろうか。

石田氏が「石川は本を読んでいた」「万年筆を持っていた」等の、あたかも石川氏が犯人だと仄めかすような供述をした調書の日付は、6月8日であることに注意されたい。


朝日新聞 1963年6月5日より

上は朝日新聞の記事。「石川のアリバイ工作を裏付ける何らかの情報、捜査資料を持っているのではないかとの期待から逮捕したものとみられる」とある。


※別件逮捕をここまで堂々と正当化しているのもスゴイが。情報が欲しいのなら、普通なら参考人として“事情聴取”で済むはずだ。

この紙面、実名や顔写真まで掲載し、パッと見ればまるで「善枝さん事件の共犯を逮捕」したかのような印象を与える。

さすがに当方でモザイクを入れた。この二人が部落民でなかったら、果たしてこんな扱いをされただろうか。

グッドタイミング

警察はどうしても決め手になる目撃証言が欲しかった。しかしいくら探しても見つからない…そこへもたらされた内田証言は、気味が悪いほどのグッドタイミングだ。

ちなみに内田氏の奥さんは当時、婦人会の支部長として捜査本部へ炊き出し
に行っており、多くの捜査員と顔見知りだった人物である。

※注―炊き出し

事件発生当初、近隣住民の多くが聞き込みに対して口を閉ざし、捜査を難航させたが、被差別部落に捜査が集中し始めると態度を一変、協力的になったという。炊き出しもそうした市民の“捜査協力”である。

本当に「恐ろしい」のは

まぁ、憶測はここまでにしておこう。それはさておき、本当に「恐ろしい」のは、内田氏が怯えた部落民などではない。

伝聞情報を継ぎはぎして、冒頭に引用したような醜悪な差別文章を平然とネットにタレ流す、Pauli Wolfgangの方だ。




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