■時間
宮崎が書いた短編小説風の文章。書かれたのは祖父の死後、一連の事件を起こす前というので、88年5月から8月末の間か。父親が捜査資料にと提出したという。


時間

 君は“時の流れ”という言葉を聞いたことがあるか
――どんなものだか知っているか!?

 そう、字のとうりノンストップの「時の移り変わり」だ。
 我々の生活行動は、絶えず、その“時の流れ”にくっついているのだ。
当然、逆らうことなどできやしない。

たとえば、

(T)「あっ、岩が落ちてくる!時間よ止まれ(その間にぼくはにげる)!」
             〈時間を止めようとする〉 

(U)「あっ、前から車が!こんな道、通らなければよかった(過去に逆もどりして違う道を通りたい)!」
             〈時間を飛び越えようとする〉  
……etc。

こう考えてみても、とてもじゃないが不可能だということが分かるだろう。

 よく「タイムマシーン」という言葉がある。
 だが、それは時間を直接操作しようというのではない。“時間を飛び越えよう”というのであって、“時間を止めよう”というのではない。つまり、いつも我々と一緒である“お隣さんを操作しよう”というのではなく、“おつき合いを一時的にやめよう”というふうに我々の方から出ていこうという考えが、「タイムマシーン」なのである。
 
 やがて、未来へ、過去へ、という時代がやってきて、いかにも「時間を操作している」ように思われる日が来るだろうが、やはりそれは間接的なことでしかないのだ。
 時間はノンストップ――決して、我々は、直接手を加え、操作することはできないのだ。

 我々は“時”というものの正体を知らない。
だから、もし、時間の方で、我々を自分に合わせているというのが本来なのだとしたら、我々はいつそいつにいたずらをされるか分からない。いつ、我々を自分に合わせている最中、手落ちがあるか分からないのだ。
今言った「いたずら」とか「手落ち」というのは、我々が時間をずらされた状態、いわゆる現在から、過去、未来へと一瞬のうちに消し飛ばされるということだ。
 先にも言ったように、もし、我々と時間との間で、時間の方が主体であるならば、こう考えてみても不思議ではない。

(中略)

ちまえー!何も考えないでいい、もっと前向きになれー!」
 一郎は、その声を背中で浴びた。
「ま……前向きに……!?そうか、前向きにか……!けどうれしいぜ、これだけ迷惑をかけたのに、これだけ失敗しているのに、まだおれのことを……!有難い!本当に有難い!わかった、おれは投げる!投げ続ける!力いっぱい投げ続けてやる!」
―― 一郎はうれしさでいっぱいだった。気がかりがなくなったからだ。一郎にとってこれほどうれしいことはない。これほど

(中略)

「みんなはどこ!?だーれもいない……おれ一人じゃないか、何も見えない……真っ暗な世界だ!なぜおれはこんな所にいる!?なぜおれ一人なんだ……なぜなんにも映らない……恐い!恐い!あ〜見えない!何も見えない……自分の姿も見えない、自分はちゃんと居るのに、“姿”がない!!どこへいっちまったんだおれの手は……おれの足は……おれの身体は!?

手を目の前にかざしてよ〜く見てみろ!……だっ、だめだ……ない!“手をかざした”という感覚さえない!おれは幽霊になっちまったのか!?おれには身体がない……身体と一緒じゃない……おれは……おれは……」
―― 一郎は、今まさに“未知”と格闘していた。自分は未知と共にあった。

「おれはここから出られないのか……いつまで居なけりゃならないんだ……永遠に出られないなんてことになったら気が狂っちまう……いやだ!こんなところはいやだ!もう発狂してしまいそうだ!頭が痛い!割れそうだ!……こんなわけのわからないところ……いつまでだ……ああ、出たい!早く出たい……みんなのところへ帰りたい!帰りたい!帰りたい!ううう、ううう……」
―― 一郎は泣き出した。悲しくて悲しくてたまらなかった。ただ泣くことしか出きなかった。
「ううう、ううう……」

(中略)

「きっと、今さっき目をつむったとたんに何かがおれに起こったんだ。生まれてからこんなことなかったのに……こんな恐ろしいこと初めてだ……。なぜここは暗いんだ!?なぜ真っ暗なんだ!?見えない……なんにも見えない!おれしかいない!おれしか……おれ……あっ!身体(ボディー)が見えない!見えない!おれの身体(ボディー)がない!ない!どっ、どこへ行ったんだおれの手は……足は!?いつもなら下を向きさえすれば、なんなしに自分の姿は見えていたのに……こうして下を向いてもなにも見えない……ない、「姿」がなくなっちまった。

“自分”は今生きているのに……その身体(ボディー)がない……どこにもない!こんなバカなことってあるか!よーく両手の平らを目の前にかざして見てみろ!……だっだめだ感覚がない――“手の平をかざした”という感覚さえない!まるで急に体身がストップしちまったような感じだ……手足その他全部が、おれに服従しなくなっちまったようだ……。
この世界はいったい何なんだ!?“自分”さえも見ることができないのか……。つい今まで平常だったのに、なぜ目をつむりゃあ、――そりゃ確かに暗くなるだろう、しかし、おれは今こうして目をあけているんだ、目を開けたんだ!……だのになぜおれはこんなところにいなきゃならないんだ……こんなところに……、んっ、こんなところ!?ところ……って言ったって……あれっ、不思議だ!“姿”がないのに、おれは自分の存在を認めている!それにおかしいぞ……こんなとこ一度来たことないのに、なぜかとても身近に感じる!いったい何なんだこの空間は?」

―― 一郎はまだ気付かなかった。
――その空間が自分自身であることに。
「いっいやだ!とにかくいやだ……こんなとこいやだ……いやだ、出してくれー!おれをもとにかえしてくれー!もし帰れなかったら……もしこんなとこにずっと居なけりゃならなくなったら……おっ、おれ……恐い!恐い!出してくれー!おれをここから出してくれー!いやだ……いやだー!ううう、ううう帰りたい……帰りたい……ううう」
――と、その時だ。この真っ暗な空間になにやら白くもやもやしたものが現れ、どんどんふくれあがっていた。
「あっ、あれは何だ!?……いや、わかる!おれはそれを知っている!知っている……それは“涙”だ、おれの涙だ!わかる!“涙”を目の前にして見るのは初めてだが、確かにこれは、おれの涙だ……そうだ、今おれは悲しんでいる……涙を見ておかしくはない、しかし……そうか、おれは今、“自分”を見ているんだ。自分で自分を見ているんだ。この涙は……そう、悲しんでいる今の“自分”なんだ!おれは今自分の『目』で、自分の“悲しさ”を見ているんだ!そうか、今外側(脳が指示するもの)を見てきたおれの『目』が何らかの作用で、自分の内側(心)を見るようになったんだ――そうなんだこの空間はおれなんだ……この空間全部がおれなんだ!」

――一郎の考えは正しかった。今の一郎の目の“視覚”が訴えるこの空間は、恐いという心理を象徴する“暗闇(ダーク)”であった。今一郎は“恐い”という心理を忠実に「目」で見ているのである。

――人間はだれでも未知を恐れることがある。それを知らないものだから――それが今の自分とミックスし得ない別の自分であることから――人はそれを怖がる……。ましてや次元を越えるなどととてつもないことになった一郎に、恐しさがつきまとわないはずがない。超こった時点で恐怖にかられて不思議はない。当然この空間を真っ暗闇として見受けてもおかしくはない。

今一郎は、未知を自分そのもので味わっているのであった。次元を越えた自分が、ミックスし得ないはずの別の自分に出会っているのだ。その証こに現実では絶対に自分の「目」で見ることができない“自分にこれから超こること”を、今の一郎はそれが見えるからだ。

(中略)

いったいどうなるんだ……ああわからない……おれにはわからない……これからおれがどうにかなる……もっと恐ろしいことになってしまうのか……!?これは何の作用だ!?おれを動かすものは何だ……うう、恐い!恐い!助けてくれー!おれを助けてくれー!!」

―― 一郎は大声で叫んだ。しかし、ようしゃなく時空間は一郎をゆさぶり続けた。
と、その時だ!ピキッと一郎の空間にき列が入った!
 一郎の空間と「時空間」へつながる穴がぽっかりとあいたのだ。それはまっ黒な孔であった。一郎の空間など、足元にも及ばぬ程のまっ黒な穴があいた。

「うっ、うわっ!ブラックホール!ブラックホールだ!」
――そしてみるみる内にその穴は一郎をすいこみ始めた!自分自身であるはずの空間にできた穴に自分自身がすいこまれはじめたのだ。
「うわっ!うわ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
―― 一郎は、奈落の底へ落ちていった。

(五)過去へ

「うっ……ここは!?あっ、広場!そっそうかおれはもどれたんだ!もどれたんだ!もとの世界に……もとの自分に……ううう、ついにもどったー、もどった〜〜!」

―― 一郎はその場にがっしりと手をついて泣いた。しっかりと大地に手をついて……
「ううう、ううう……」
ピチャッピチャッ
「はっ、涙!こぼれている、確かにほほを伝わってこぼれている!この手の平にはっきりと……ある!手がある!足もある……身体がちゃんと……世界がちゃんと……、木が……道が、辺りがある!ああ元の世界だ!もとの場所だー!ううう、ううう。」

瀧野 隆浩著「宮崎勤 精神鑑定書―多重人格説の検証」(1996/講談社)より


※「体身」「超こる」等の誤字、脱字は原文ママ。(〈中略〉部分は原文が欠落?)

公表された宮崎の文章では、最も表現が生き生きしてると感じるものである。
多重人格症患者が体験するという〈離人体験〉の症状と合致するとのことで、精神鑑定での資料とされた。

引用した瀧野氏は「表現は稚拙で漫画的」と評する一方、宮崎が「『時間』というものをじっと考えたのだろう。しかしそれは、哲学的思考によって突き詰めていった論理というより、何か『見てしまったものをそのまま文章にしている』ともいえるような凄味さえあるのだ」とも評している。筆者も同感である。

公判で茫漠とした受け答えをする姿と、〈今田勇子〉の文章が結びつかないなどと言われたが、こういったものを書いていたことに意外な感じを受けるのではないだろうか。

また、宮崎の友人は中学時代の夏休みに、大学ノートに鉛筆でびっしり描き込まれたマンガを見せてもらったことがあるという。

少年がタイムマシンに乗り込み、タイムパトロールをするストーリー。隊長とのトラブルで宇宙空間にタイムマシンごと置き去りにされた主人公が、ドアを開けて片足を出してしまう。すると時間が錯綜し、現代に戻る。ラストは「片足を過去に置いてきてしまった」と、少年がつぶやくシーンで終わるという。



戻る
inserted by FC2 system