■修学旅行の感想文
  
宮崎が小学6年生のとき、栃木県の日光に修学旅行に行った際の感想文。



修学旅行の思い出

旅館のこと

やっと旅館についてバスからおりた。
そして、先生の指揮にしたがって旅館へ入った。
まあ、よくない方よりはいい方だった。
一人一人スリッパをはき、組ごとに部屋へ入った。
ぼくたちは、二階の階だんのすぐそばなので、まずまちがえることはないだろうと思いながら、ナップをおろして一休みした。

とうとう夜になり、ばんめしを食べることになった。みんなわくわくしながら、食堂へ向かった。
すわることになったとたん、ぼくは一しゅんドキッとした。まさか!!
そして、うれしいのかこわいのかわからないまま、いい席をさがし求め、人の感情などかまわずイストリゲームのようにすわりこんだ。
今までおそれていた まさかが、消えて行くようだ

「君は宮崎勤をどう見るか」 宮川俊彦著 / 中野書店 / 1989.12より


これも当時報道された有名なもの。先入観を持たずに読めば、何の変哲もない小学生の作文である。だが、


「すわることになったとたん、ぼくは一しゅんドキッとした。まさか!!
そして、うれしいのかこわいのかわからないまま、いい席をさがし求め、人の感情などかまわずイストリゲームのようにすわりこんだ。
今までおそれていた まさかが、消えて行くようだ」

の部分を事件と関連づけて報道されると、何とも背筋が寒くなる感じを与えられたものである。

逮捕された幼女連続殺害犯は、身なりのだらしない、今でいう引きこもりやニート的な、26歳の冴えない平凡な男であった。

その姿や、部屋に積まれた子供向けアニメや特撮のビデオと、あまりに猟奇的な犯行が世間の人達の中ですぐには結びつかなかった。

取りあえず「ロリコン」や「ホラービデオ」のキーワードで括って一線を引くことで、何とかして安心感を得ようとしたのだ。「ああ、やっぱり異常な奴なんだ」と。

こうした他愛ない作文にまで異常性をこじつけるのを、当時は報道する側も受け取る側も、どこか無意識で望んだのではないか。


(日刊スポーツ89年8月16日)

今でこそ宮崎事件は「オタクがしでかした最悪の犯罪」と括られるが、当時の一般人の受け止め方は、上のように「とにかく不可解」であったのだ。

この時期オタクの語はまだ一般化しておらず、この得体の知れない男を一言で表現する便利な語として、徐々にオタクが浸透していったという印象がある。

因みにこの事件の頃は“おたく”表記が普通。いい年をしてアニメや漫画にハマるダサい奴の総称として、差別語、自嘲として使われていた。

90年代後半以降、岡田斗司夫氏らといった方が、自ら片仮名表記の“オタク”を自称。ポジティブなイメージを付与すべく評論や著述で活躍し始める(各人の好悪は別としても)。

また、初期オタク差別のトラウマを引きずっていない、80年代以降に生まれた世代や、著名人、アイドルタレントの中からも、自らオタクを公言する動きが出始める。

こうして「電車男」ブームなども経て現在、片仮名“オタク”は市民権を得たとは言わないまでも、社会の中で一定のポジションを得たとは言えるのではないか。

もっとも、宮崎をオタクと呼ぶのは少々ピント外れな気がする(オタクの定義自体、有って無いようなものだが)。彼が一つの対象に専門家はだしで、マニアックにのめり込んでいた形跡は見当たらない。彼には単に“度を越した収集癖”があったに過ぎない。





●小学校の卒業文集より



週刊テーミス89年8月30日号より

五日市小学校の卒業文集で徒競走の思い出を書いたもの。大人の頃より全然字が整っている。テキスト起こしの必要もない程に(笑)。イラストのフキダシには「がんばるぞ!」とあり、大変ほほえましい。



四年生の思い出

荒崎海岸へ行ったこと

バスからおりて、海岸へ向かった。
ついに海岸へ出た。さすがは、有名な海岸だけあって、岸がゴツゴツしている。
平らな方へ行って、ヒトデやカニなどをとった。
中でも、ヒトデが多く見られた。
ぼくは、どんなヒトデでもくっつくとはなれないと思っていたが、平気なヒトデもいることを今知った。
安心して、ぼくもどんどんヒトデをつかまえた。


「君は宮崎勤をどう見るか」 宮川俊彦著 / 中野書店 / 1989.12より


現在も凶悪で猟奇的な事件の犯人が逮捕されると、各局のワイドショーは競うように「卒業文集晒し」を始める。この手の報道は宮崎事件から定着したように思う。まァ、こんなページを作ってる筆者とて人のことは言えないのだが(笑)。



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