怪獣博士、187の肖像A

中学時代

▲中学校入学の頃

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「あまり記憶にない生徒でした。おとなしくて、目立たない子だったんです。授業中、自分から進んで意見を言うこともなかったが、それでも、勉強はしっかりしていたようです。特に、英語の成績はよかったようです」

(町立五日市中学校1年時の学級主任C・D先生)[『女性自身』1989.9.5]

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「彼が部活動をしていた姿は見たことがない。それよりも、教室の中で、漫画をコツコツ描いていた。成績は中の上、特に英語はクラスでも上位でした。校則違反もなかったし」

(中一の担任)[『週刊朝日』1989.8.25]

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「当時の指導要録を見ると、性格の欄に“おとなしい、目立たない、無口”と記入されています。これほど直裁に表現した記述は、珍しいですね」

(五日市中学校校長、氏)[『文春』1989.8.31]

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「ひっそりと隅にかしこまっている子。与えられた仕事はやるが、目立ったことはまったくない」

(中学1年の時の担任)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

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「ふだんは暗く静かな少年でしたが、作文では、想像力を十分に働かせて、明るくのびのびした文章を書いてました」

(中学の3年間、国語を教えた女教師)[『週刊朝日』1989.8.25]

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「休み時間だけでなく、授業中でもノートやリポート用紙に怪獣の絵を描いていた。自分で創造した絵でツノなどが出ている怪獣だったかな」

(中学校級友)[『サンデー毎日』1989.9.3]

参考 : 宮崎勤の描いた絵。宮崎は裁判中にも、我関せずで怪獣やロボットの落書きをしていた。当時休み時間に描いていたものとほぼ同じようなもののようだ。

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「大学ノート五、六冊分のマンガを見せてもらったことがある。絵はうまくなかったが、タイムマシンに主人公が乗り込んでパトロールするストーリーはしっかりしていた。『中学生でよくこれだけ考えつくな』と言ったら、うれしそうだった」

(中学校級友)[『サンデー毎日』1989.9.3]

この漫画のストーリーはこうだ。
タイムマシンに乗って時間を旅する主人公が、トラブルで、片足をタイムマシンの外に出したまま時間を移動する。そのため、主人公の片足はなくなり、ラストで現代に戻ってきた主人公が、こう言う。「片足は、過去に置いてきた」。

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「授業中、先生に尋ねられると、もじもじしないでしっかりと答えてました。化学、地理が得意だったみたい。何かひとつのことに熱中するタイプで、絵を描きだすと、席を立たないで、ずうっといつまでも描いていた。優しい感じで、人に意地悪をせず、人からも悪口を言われることがなかった」

(五日市中3年同級生・K美さん)[『週刊読売』1989.8.27]

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「必要最低限のことしか話さなかったけど、そんなに暗くはなかったですよ。わりと頭が良かったみたい」

(五日市中3年同級生・S江さん)[『週刊読売』1989.8.27]

宮崎勤のクラブ活動は、1、2年は陸上競技、3年は将棋。将棋は地域の大会で優勝したこともある。

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「彼には負けず嫌いというか悔しがり屋の面は多分にありました。休み時間に将棋をやって負けると顔をゆがめて悔しがるんです。でも口の中でモゴモゴ言ってるだけ、ハッキリ悔しさを言わない。そのうち将棋の本を読んできて挑戦するんです。たかだか将棋のことで、あれだけムキになるのも珍しいですよね」

(同級生E・F君)[『女性自身』1989.9.5]

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「クラスが一緒だった割には、印象にありません。ただ、将棋クラブで、対戦したことがあったかな。けっこう強かったと思う。どんなことかは忘れたけど、誰かにちょっとからかわれた彼が、珍しく顔を真っ赤にして怒ったのを覚えている」

(五日市中3年同級生、M君)[『週刊読売』1989.8.27]

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「勤は将棋がかなり強かった。でも、たまに負けるとすごく悔しがって、書店へ行って将棋の本を買って研究してた。研究熱心というよりは、異常なほど負けず嫌いだった」

(級友)[『明星』]

42▼「からかわれても、強く握ったこぶしを震わせて耐えていた宮崎を覚えている」

(同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

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「あいつが机に座っていて、誰かにからかわれたと思うんだ。そのとき、あいつ、じっと我慢しているんだよ。普通だったら口で言い返したりするでしょ。それが黙って我慢してた。

そのとき、握り拳をつくって、ぎゅっと握って震えてるんだよ。よくドラマでやるでしょ、怒りをこらえて、腕を震わせるっていう。あれと同じ。ああ、ドラマみたいな怒り方をするなあ、と思ったんで、記憶に残ってるんです」

(友だち)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「学生カバンが参考書や本で膨らんでいた。勉強が出来て、先生に当てられてもスラスラ答えていた。休み時間はいつも将棋。放課後、机の上から前転をやってみせて、けっこう注目を集めたこともあった」

(五日市中3年同級生・I君)[『週刊読売』1989.8.27]

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「あいつ、短距離はかなり速くてね、運動会ではクラスの代表に選ばれる。ただ、中学になると運動会で選手になって走るなんて、どっちかっていうとみんな面倒くさいんです。

そこで、宮崎なら文句言わないだろうって選んでいたんです。本人はどう思ってたか知らないけど、何も言わず選手になって走ってました」

(同級生GH君)[『女性自身』1989.9.5]

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「運動神経は良かった。空手の真似をやってみせたり、足も速くて、体育大会にリレーの選手に選ばれたくらい。漫画もうまかった」

(五日市中3年同級生・W君)[『週刊読売』1989.8.27]

宮崎は空手の通信教育をやっていた。

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「中学1年の頃だと思いますが、彼が空手を習っているのは知っていた。おとなしそうだけれど、空手を習っているんなら下手に喧嘩したらやり返されるな、と思ったことを憶えています」

(同級生)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

安倍隆典氏は「空手は、右手をきたえ攻撃によって身を守る武術である。右手の後遺症と、何らかの関連を持つと考えてよいだろう」と推測しているが、そんな大袈裟なものではないと私は思う。この時期、格闘競技に興味を示す子供は多い。

蜂巣氏の意見に同意。この時期『燃えよドラゴン』等のブルース・リー映画が大ブレイクしており、全国の子供たちに空手ブームが巻き起こっていた。手の障害と結びつけるのは、少々考えすぎであろう。

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「そうしたら勤が空手の形をやってみせたんです。誰かが殴る格好をして、それを避ける構えをしてみせたんだけどさ、なかなか堂にいってましたよ。体は小柄で痩せていたけど、ちゃんと格好になっていた」

(中学一年のときの友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「仮面ライダー、怪獣のプロマイドを集めていたようで、一、二回交換した覚えがある」

(同級生)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

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「勤と3、4人で地元のボウリング場に行ったとき、『好きなテレビ漫画が最終回なんで、いったん帰るわ。』と途中で帰宅して番組を見た後、再びボウリング場へ。

当時、発売されたばかりで高額なビデオデッキをすぐに買ってもらった、と言ってたから、ずいぶん大切に育てられたんじゃないかな」

(五日市中3年同級生、K君)[『週刊読売』1989.8.27]

当時、ビデオは26万円くらい。ちなみに、ここでいう“好きなテレビ漫画”とは『ガッチャマン』のことである。


▲中学校卒業の頃

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「昼休みでも一人で背を丸くして自分の椅子に腰掛け、もの思いにふけっているような感じでした」

(五日市中学で同級だった主婦)[『週刊女性』1989.9.5]

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「怪獣の絵を鉛筆で描いていて、それがすごくうまかったんだ。漫画家になったほうがいいやつだった。描きたいときにいつも描くって調子だったよ。ストーリー漫画じゃなくて、一枚だけの絵が多かったんじゃないかな」

(友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「ちょうど僕の後ろの席。授業中もノートに『サイボーグ009』などの絵を描いていた。女の子たちは誰も相手にしていなかったし、『マザコンじゃないか』と噂されていた。高校に入って遊んだ、と聞いている」

(五日市中3年同級生、Y君)[『週刊読売』1989.8.27]

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「あいつはロボットみたいな絵もよく描いてた。マジンガー
Zみたいな絵だった。だけど、あれは自分で考えたキャラクターだったと思うな。うまいと思ったよ。あのまま続けていれば、プロになれるんじゃないかと思うくらいうまかった」

(友人)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

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「休み時間、勤に“河童の怪獣の絵を描いてみろ”と言ったら、大学ノートに伏せるようにして、黙々と描きはじめた。出来上がったのを見ると、鱗のひとつひとつまで丹念に描き込まれていてみるからに気味が悪かった」

(級友)[『明星』]

『現代』(10号)にノンフィクション?ライター吉岡忍氏が書き下ろした【幼女惨殺】によると、「宮崎の描く絵に、人間は一人も出てこなかった」というのが、友人共通の証言であるらしい。

しかし、自作の漫画や学校の文集、高校のとき友人にあてた年賀状などには、創作と思われる人物のほかに宮崎自身や友人の絵が描いてある。怪獣を描くのが好きな子どもにとって、人物は描くのが難しい割にはあまり魅力のないもの、と思う。

参考 : 宮崎勤の年賀状。「宮崎の絵に人間が出てこなかった」ということはない。その人が見た絵に、たまたま描かれてなかっただけではなかろうか。

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「英語の授業のときだけ、前のほうにすわっていたという記憶しかありません。バレンタインデーには、女の子が男子全員に義理チョコをくばりますが、彼は目立たないうえ女子を避けるところがあったので、それすらもらっていない」

(同級生K氏)[『テーミス』1989.8.30]

『週刊読売』(8.27)の《五日市中3年D組同級生の全証言》の中では、「ノーコメント」の他に「印象に残らない」という意見が多い。次の意見は、その最たるものである。

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「小6、中学と一緒だったらしいけど、憶えてないんだよね。少人数のクラスでほかの皆は全員憶えているのに、彼だけがすっぽり抜け落ちている」

S氏)[『週刊読売』1989.8.27]

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「弱い者には強がっていたみたいだね。同級生の一人が学校に行く時宮崎の家に寄ったら、怒鳴られたというんだ。宮崎は学校を休むつもりだったらしいけど、弱いやつには、そうやって怒鳴ったりするところがあった」

(同級生)[『フラッシュ』]

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「もの心ついた頃から、木登りや高い所から飛び降りたり、よく一緒に遊んだ。中学校までは暗い印象はありません。高校へ入ってから変わった。愛想が悪くなり、酒の席では何もせずに、隅でポツンとしていた彼の姿が目に浮かびます」

(五日市中3年同級生、A君)[『週刊読売』1989.8.27]

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「中学一年の時、給食の時間にスプーンの使い方がおかしいので、“どうしたんだ”と聞くと、“生まれつきなんだ”と、勤はポツリと一言答えたことがありました。

勤とは小学校の頃から秋川で泳いだり、木登りや野球をしたりして遊んでたけど、それまでは全く気がつきませんでした。だから、ほとんどの同級生は手のことは知らなかったと思います」

(同)[『文春』1989.8.31]

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「ある新聞には、表情のない能面みたいな顔なんて書いてあったけど、そうじゃなかった。カッとなるということも、ほとんどなかったです。ただ、今年の正月に遊びに行ったら、『今日はダメだ。』と厳しい口調で言われた。あれには驚いた。

確かに宮崎を嫌っている同級生は多かった。同窓会などで、『アイツが来るなら、オレは行かない』という者もいた」

(同)[『週刊読売』1989.8.27]

この意見が本当だとすれば、宮崎勤の感情の起伏は常人のそれと変わらず、子供の時から“異常に印象に残らなかった”というのが定説のようにあちこちに書かれているが、実は“嫌う”という形でも意識している同級生が多くおり、同窓会に『アイツが来るなら、オレは行かない。』とまでいわれるほど、一部には目立った存在であったということになる。

宮崎勤の中学3年の時の英語の偏差値は72、五日市中学校から、明大中野高校へ進学した同学年の中で唯一の生徒だ。そんな優秀な生徒が、人並みはずれて“意識されなかった”ということがあるのだろうか?

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「一見鈍そうだけど、運動神経がいいんですよ。中学生の頃、学校の土手からよく空中前転してました。また正月にトランプ遊びで“ウスノロマヌケ”(同じカードがそろったら素早くマッチ棒を取るゲーム)をしたことがあるのですが、いつも一番か二番でした」

(小・中学校を通じての友人、I氏)[『週刊読売』1989.8.27]


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「以前、宮崎は九官鳥を飼っていたのですよ。戸を開ける音の物真似がうまくて『ガラガラー』としゃべってました。私が『可愛いな』と言うと、おどけて『そんだんべ』とうれしそうな顔をしていました。また、白い犬も可愛がってましたね」

(同)[『週刊読売』1989.8.27]

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「あれは三年のときだったけど、夕方、勤が自分の庭にしゃがみこんでいる。何をしているのかと近づいてみると、股間に猫をはさみこんで首を絞めている。猫はケイレンして今にも死にそうでした。

びっくりして、すぐに猫を放させたんですが、勤はそのまま家に入っていった。おとなしい勤がどうして、と不思議で仕方がなかった」

(同級生)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

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「検察できかれたのは、会ったときの印象、ドライブで一緒にどこへ行ったか、最近の彼の様子はどうだったか、小さい頃はどんなことをして遊んだか、などです」

(小・中学校の同級生A君)

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「中学時代を通じても、“女”関係の話をしたことが一度もなかった。少々エッチな話をしていても、まったくのってこないんです。修学旅行で京都へ行ったときも、みんなのエロ話の輪に加わらないんですよ。最近もドライブしながら、水を向けても、生返事ひとつしないから、話題になりようもなかった」
(同)

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「宮崎は冗談をよく言うヤツで、人気者でしたよ。修学旅行先で先生が、“宮崎はほんとうにおもしろいヤツだなぁ”と言っていたのを覚えています」

(10年来の友人)[『女性セブン』1989.9.14]

中学3年のとき、英語の家庭教師と、数学の家庭教師がつく。

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「(三年の)一学期の頃は成績はまずまずだったけれど、それから急速に伸びましたよ。よく勉強したということですがひとつのことをはじめると、素晴らしい集中力だったですよ。

彼は強く言われると、何でも『はい』と言うんです。自己主張しないんです。気が弱かったんですかねえ。だから、今度の事件で警察に調べられるときも『はい、はい』と言ってしまうんじゃないか。それが気になるんです」

(英語の家庭教師)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]


中学卒業時の文集『山脈』よりの、宮崎勤の“一言”。

《新たな闘志と気迫を!》

卒業記念の寄せ書き。

《Both you and I have future, ツトム》

(訳 : 僕と君には未来がある)




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