怪獣博士、187の肖像E

就職〜家業手伝い・B

▲現場検証に立ち会う宮崎勤

133
「その後、何回かビデオの貸し借りでやってきました。とにかく無口な男で、“最近、どんなビデオが入った?”と尋ねる以外、こっちから訊かないと何も話さない、そんな奴でした。一昨年の暮れ頃から、例のラングレーを運転してくるようになり、あのボサボサ頭になったのも、その頃からです」

H氏)[『文春』1989.9.7]

134
「車で来るようになると、妙に明るくなったんです。その反対に、身だしなみは悪くなって、髪もボサボサになったんです。挨拶もしないんです。入ってくると、いきなり『新しいビデオ、入りましたァ』ですよ。もうそれが決まり文句。一時間二時間いても、とにかくビデオの話しかしない人ですよ、あの人は」

(埼玉県に住むビデオマニア)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

135
「ほとんどがアダルトビデオで、他はアイドルタレントのイメージビデオなどでした」

(レンタルビデオ店従業員)[『文春』1989.9.7]

宮崎はセックスシーンが続くだけのものでなく、ストーリーのある本番物が好きだった。

136
「アニメやヒーロー物ばかり好んでいたが、こんな大人はいません。26歳の男が借りていって見るものじゃありませんよ」

(宮崎が昨年7月、入会したレンタルビデオショップ従業員)[『サンデー毎日』1989.9.3]

筆者も含めてだが、世の大人で、子供っぽい趣味を持つ者はたくさんいる。ではどういうものを借りれば26歳の男にふさわしいのだろうか?

ちなみに135では「ほとんどがアダルトビデオ」とも証言されている。どっちを信用すれば良いのだろうか。

137
「彼は我々で言うところの『完録マニア』。つまり、人気番組の『うる星やつら』だったら、一本だけではなく、初回から最終回までの全部を録画、集めないと、気がすまないんです。

3年前に彼と新宿の喫茶店で会ったのですが、そのときはよく喋ってましたよ。『僕は、昔のマンガが好きなんです』『テープは今のところ2000本くらいになってます』とか自慢しているようなところがあり、子供っぽい印象がありました」

(ビデオ仲間22歳)[『週刊読売』1989.8.27]

当時はまだ「おたく」(もしくはオタク)の語は一般化していなかった。なので、現在なら頻出するであろう「おたく」は、この証言集には出てこない。
「おたく」を使わない代わりに、「子供っぽい」「マニアック」等で表現しているようだ。

138
「五、六年前から月に三、四回買いにやってきました。ところが、今まで一度も口をきいたことがありません。本とおカネを出すだけ」

(『あきがわ書房』のKさん63歳)[『週刊読売』1989.8.27]

そんなことは別段、普通だと思うのだが……「近所で常連なら、店員と口をきかなければおかしい」のだろうか。

139
「3年前、宮崎に30分番組の『ウルトラセブン第12話』をダビングしてもらったんです。もう再放送されない“幻のビデオ”なので、僕たちマニアの中では貴重なものなんだけど。

でもその代わりにテレビ埼玉で放送中の番組を1年間録画するようにいわれ、結局、2時間テープ10本も送らされました。一方的な要求ばかりするエゴイストで、マニアの中でも常識はずれですよ」

(埼玉県のビデオマニア)[『女性自身』1989.9.5]

「宮崎勤と12話」のエピソードは、彼の人となりを表すものとして、結構なウェイトを占めている。その後、怪しげな都市伝説の元ネタともなっている。それらについては以下を参考までに。

ビデオ仲間にあてた手紙
「怖い噂」の“宮崎勤と12話”関連記事を検証

140
「宮崎は、自分勝手で人にはダビングを頼むくせに、他人には協力しない。それに頼んでくる量がまとめて10本、20本と極端に多い。頼んでくるのは、怪獣ものやアニメが多かった。相手の了承も得ずに、勝手にテープを送りつけてくる。

電話で頼んでくるときも、ちょっとでも渋ると、やってくれるのか、やってくれないのか、どっちなんだと、しつこくからんでくる。

普通は好みの傾向があるものなんですが、宮崎の場合は滅茶苦茶で、とにかく珍しければ何でもいいという集め方でした」

H川氏)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

141
「会報見てまずビックリしました。大学まで出ているはずの青年が、小学校の低学年が持っているような作品ばかり並べて“私のベストテン”とやっている。何だか気持ち悪いうえに自分勝手なので、誰もが『交換』などを避けました」

日本総合ビデオクラブの会員)[『テーミス』1989.8.30]

このベストテンは
マイビデオライフ これが私のベスト10を参照。

142
「昨年、題名を忘れましたが、ロリコンビデオをダビングしてくれ、とテープを持ってきました。30分くらいのもので、4、5歳くらいの女の子2人が裸で虫捕り網を持って走る内容でした」

(友人)[『週刊読売』1989.8.27]

現在では考えられないが、当時は幼女の全裸を写したイメージビデオや写真集が、一般書店で堂々と売られていた。宮崎の所有ビデオリストに『プチトマト』があるので、恐らくその辺りのものだろう。

ただ、4台のビデオデッキを持っていた宮崎が、なぜ他人にダビングを頼む必要があったのか「?」だ。

143
「勤は、幼い時から手が不自由なのを気にしていた。実際4歳の時には手術を考えた。でも手術をして身障者になったらと将来を考慮して、そのまま暮らしてきた。

勤は以後、さまざまなことがうまくいかないのは、すべて手のせいにしてきたようだ。(成長してからは)『手が悪い。オレは結婚できない。どうしてオレみたいなのを生んだんだ』という気持ちはあっただろう。そのうっぷんがビデオに向いたのでしょう」

(父親)[『東京新聞』]

174〜176は、当時見合いをした相手の証言だが、手のことは一言も語っていない。そもそも、誰も気づかないレベルの障害を、宮崎家がわざわざ見合い相手に伝えるはずもない。

先方が断ったのは単に印象が悪かったから。この話では、それを自分で手の障害にこじつけていたように聞こえる。

宮崎は見合いをさせられるのを嫌がり、家庭内で結婚話が出ると、いつも逃げるようにその場から立ち去ったとも父親は語っている。息子が「手のせいで結婚できない」コンプレックスを持っていたと、父親は独自解釈していたのではないか。

144
「彼の部屋の写真を見たとき、おかしいな、と思ったことがある。ビデオデッキを4台持っていれば、初心者でもセレクターを持ってますよ。どのデッキで何を録画しているのかを確認するには必需品ですから。だけど、彼の部屋にはなかったですよ」

(某ビデオマニア)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

145
「宮崎の部屋を最後に覗いたのは去年の正月でした。ビデオテープに囲まれた部屋の真ん中にコタツがあって、その上に山盛りのミカンがあったのを思い出します」

A氏)[『文春』1989.9.7]

146
「“ツトム、ツトム”と言って、お祖父さんは勤をずいぶん可愛がっていました。長男の長男だから、一番可愛かったんでしょう。父親に隠れてお祖父さんが小遣いをやっていたと思います。

父親はS吉さんが死んだ後、晴海の見本市(7月)で一台700万もする新しい印刷機械を買ったということです。事業を拡張するつもりだったんでしょう。

勤は無口で、高校の頃からもう親父、お袋と口をきいたことがないそうだけど、父親は最近、秋川市に支店を作ってやるから、結婚して独立しろ、と叱っていたらしい。

それに、上の妹の結婚も昨年はじめに決まっていて、勤もいつまでもブラブラしていられなかったと思いますよ」

(秋川新聞社の関係者)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

祖父は去年(1988年)の5月、脳溢血で死亡する。生前、祖父は骨董品収集が趣味で、琵琶や詩吟をたしなみ、飼い犬の「ペス」を大変可愛がっていた。祖父は老人性痴呆症にかかり、数年前から町内の特別擁護老人ホームに入っている。

147
「祖父さんは五日市町では指折りの成功者だったね。町会議員を勤めたこともある。詩吟をやったり、いろいろ趣味の広い人だったよ。

女性のほうも発展家で、ばあさんとよくモメていた。町じゅう、知らぬものはない。そのせいか息子は酒も飲まない仕事一本やりの堅物。そんなこともあってか勤は親父より、祖父さんになついてたなあ」

(五日市町の古老人)[『文春』1989.9.7]

148
「去年5月におじいちゃんが90歳で亡くなって、勤君を可愛がっていたおばあちゃんも、半身不随で町内の老人ホームにいます。おじいちゃんの葬式の時は、泣きじゃくる両親や妹たちと違って、涙ひとつ見せなかった。まあ、男の子だから、しっかりしてきたと思って見てきたのですが。
なにしろ、道で会っても挨拶もしないし、一度、しっかりせんといかんぞ、と注意したことがあって。その時も、うつむいてうなずくだけで……」

(自治会の役員60歳。)[『週刊読売』1989.8.27]

親戚の一人は、祖父の葬儀のときの宮崎勤の様子を次のように語る。

149
「勤ちゃんはうろうろしてました。ショックをね、相当受けたようでした。あのおじいちゃんは孫を可愛がっていたからね。私、思うんだけど、おじいちゃんが死んで、勤ちゃんの見張り役がいなくなったから、それであんなことをするようになったんではないかって」

(親戚のひとり)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]

宮崎は幼女殺害やビデオ撮影の動機を「おじいさんを生き返らせるため」等と、メンヘルな理由を語っている。

雑誌「創」編集長の篠田氏などは「祖父の死が事件のきっかけとなったのではないか」と解釈しているが、実際は宮崎は祖父をクソジジイと呼んで暴行したり、祖父は祖父で「勤のそばにいたら殺されてしまう」と語っていたという声もある。

これも宮崎の内面のことで真実は伺い知れないが、どうも筆者個人としては、祖父の死も都合よく動機付けに利用していたのではないか、という疑惑が否めない。

150
「臨終の際、祖父が可愛がっていた犬の鳴き声を録音して遺体に聞かせていた。あの時は優しい子だなあと、私もホロリとしたんだが……」

(父親)[『文春』1989.9.7]

151
「勤が慕っていた祖父が(去年の)5月16日に亡くなった。祖父が犬好きだったため、臨終の際、勤はテープに録音した犬の鳴き声を遺体にしばらく聞かせていた。この時は『ちょっと変わっているな』と思った。

それから祖父の葬式後、趣味だった骨董品を遺族で分配する相談をしていたところ、勤がなだれこんできて、集まった人々に『出て行け!』と叫んだことがあった。このあとも家族に危害こそ加えないが、窓ガラスをたたき割ったり、とどうも変な行動があった」

(父親)[『東京新聞』]

父親は150で、遺体に犬の鳴き声のテープを聞かせる勤を「優しい子だなあとホロリとした」と言い、151では「ちょっと変わっているな」と言う。本当に別々の場所でそう発言したなら、父親の方も少々変だ。

152
「あの子はお母さん子だったのよ。いまだにお母さんは、あの子のことを“つとむちゃん”って呼んでたし、あの子はあの子で、お母さんのことを“チャーチャン”って呼んでたくらい」

(家族ぐるみの付き合いがある近所の主婦)[『週刊女性』1989.9.5]

153
「もう、26歳なので、ビデオでもなかろう。結婚したらどうだ、と勧めた」

(父親)[『サンデー毎日』1989.9.3]

154
「事件を起こす一週間前には『もうお前も、子供の見るアニメなんかやめて、とにかく仕事を覚えろ』と言ったんです。それで1年か2年以内に結婚させて、秋川市のほうに支店でも持たせようと思ってたんです。もう内緒で印刷機材やカラーコピーなども買う準備をしていたんだ」

(父親)[『女性自身』1989.9.5]

宮崎の車は、ダークブルーの日産ラングレー。後ろと横の窓に、当時既に使用が禁止されていたモスグリーンの目隠しシールが張ってある。

155
「彼がドライブに誘いにくるとき、前もって電話をかけてきたことはありません。いつも突然やってくる。それなのに、こちらが誘いに行くと、絶対に断る。理由はいつも“今日は用がある”。

ガソリン代は、彼が誘ってたのに、いつも割り勘でした。彼の金銭感覚はシビアで、金はたとえ10万円でも金額に関わらず貸してくれるんですが、必ず利子を取るんです。それも、期間によって利子が違ってくる」

A氏)[『文藝春秋』10号【追跡!宮崎勤の「暗い森」】安倍隆典]

156
「ささいなことですが、ドライブに行く時でもボクの車を使おうとするし、誘っておきながら『ガソリン代を出してくれよ。』と言われたことがありました。それでいて、いっしょに車に乗っても、ビデオがどうしたこうしたという話以外、何の話題もありませんでした」

A氏)[『テーミス』1989.8.30]

157
「どこかに行って食事をして帰ることが多かったんだけど、車の中でほとんど話をしないんですよ。音楽を流すわけでもなく、黙々と運転しているんです」

(友人)[『フラッシュ』]

158
「行き先を聞いても言わない。結局、新宿のカメラ店まで行って、宮崎がビデオテープ5、60本を買っただけ」

(友人)[『朝日ジャーナル』1989.8.25]

159
「運転が乱暴なんですよ。急にブレーキをかけたり、坂道をすごいスピードで降りたりするんだから。怖くて、ねえ。それに、運転してる間、なんにもしゃべらないから、気詰まりになっちゃう。不気味っていうか。勤ちゃんは、ほんとに何に関心があったのかしらって、今も思うんですよ」

(3回、宮崎の車に同乗したことのある、下請けを依頼されていたオペレーターの女性)[『現代』10号【幼女惨殺】吉岡忍]




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